シーズン1 Ep4 出会い

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超氷河期と呼ばれた西暦1998年に、三菱電機に入社しました。当時の三菱電機株価は200円…会社の経営判断で職場が次々になくなっていき、年替わりで異動、異動、最後に辿り着いたのが波光電でした。

はじめは製造で蒸着やスパッタ工程を担当していましたが、宮内先輩の結婚式でピアノを弾いたところ、中西係長の目にとまり、山下はテクニシャンやから保全やな、となぜか25歳から保全というお仕事に変わりました。

新米の私にとって波光電のラインは大変なところで、古く癖の強い装置が少しずつ色んな種類配置されており、メインはCVDでしたが、注入装置や計測器もたくさん、テスト工程まで担当していました。

毎日泣きながら謎な装置たちに向き合う日々… しかし直さなければ終わらない仕事でしたので、逃げ癖は早めになくなります。考えなければ、覚えなければ、直らなければ、終わらない。

熊本へ転勤になり、それから今度はU製へ、ずっと保全業務に携わっていますが、よくよく考えてみるとこの仕事は面白いです。

そもそもピアノと保全は全く関連性がなく、機械好きでもないのですが、それが、私に与えられた運命だったのでしょう、と理解しています。

ご縁があって若いころ住んでいた安倉寮の、全く同じ号室に戻ってきました。

2年前、熊本から共にやってきた西島先輩(以降、先輩ニキ)は、いつもお風呂場で褒めてくださいます。

健太郎ちゃんはコミュ障じゃなかけん。

仕事も回せるし、ユニポスでも拍手たくさんもらえるし、本当のコミュ障とは違うけん。

いや、本当にコミュ障なんですよ。

知らない人には話かけれないし、先輩ニキみたいに話術もないし。

俺からしたら娘のいる健太郎ちゃんはうらやましかけん。与えられたもので満足せんば。健太郎ちゃんはいろんなものば持っとるけん。

部屋に帰ってきてから、ふと先輩ニキの言葉を思い出しました。

「与えられたもの」かぁ。

なので、今回はちょっと珍しく前向きな気持ちで綴りたいと思います。

娘、じゃなくて妻について。

娘が生まれてからは娘に浮気してしまい、娘一筋の生活になりましたが、心の中ではもちろん妻(以降、リエさん)を大事にしています。

出会ったのは竹富島でした。

リエさんは私の第一印象を、「しゃべらない、目を合わせない」と思ったそうですが、私の記憶では、もっと自然にしていたような気がします。

まぁ、でも、人見知りで知らない人に自分から話かけるということはまずないので、だいたい合ってるのかも知れません。

私が最初にリエさんを見たのは、素泊まりの宿の夕食の部屋でした。一番最初に部屋についた私とマティと、その後に入ってきたのがリエさんでした。

なんだか楽しそうに入ってきたのを覚えています。

リエさんはあの沖縄の旅が人生史上、最高に楽しかったそうです。

私たちと出会ったのは、旅の後半だと思いますが、前半もかなり楽しかったようです。

人に恵まれたんだと良く言っていました。

沖縄は、不思議なところで、出会う人たちがみな友達のような感じになります。仲間のような、同士のような。

もちろん、見ず知らずの人たちですが、今でも友人な人たちが私にも居ます。

前述したように人見知りで、人間に心を開くのに大体3年はかかる私ですが、ただ、私が一緒に旅していた友人のマティは社交的なので、いつの間にか3人で話していたりしていたのでした。

それは多分、夕食後に庭で開かれた「ゆんたく」だったかな。3人で話して意気投合。 リエさんが道に迷い、1日、どこにも行けず自転車で彷徨っていたという話を聞いて、それは可愛そうとマティと私とでリエさんを夜の桟橋へ連れて行きました。

その日、幸運なことに竹富島は何とか流星群が訪れる日で、ただでさえ信じられないくらいの星が降り注ぐ沖縄の空に、百万の流星が線を引いていました。

あんな素敵な空が、この世にあるものかしら。

そんな夜の桟橋で、リエさんと夜更けまで話していました。

マティは気を利かせて、浜辺でタコを探していました。笑

初対面の人と、これだけ話せるものかしら。

というほど自然で、他人ではないような不思議な感覚がありました。

気がつくとリエさんは、宿から勝手に持ち出した毛布に包まれて桟橋で眠っていました。

後で聞いた話では、いつも22時には眠るのでかなり限界だったようです。

知らない人の横で眠る何て大丈夫?と思われそうですが、あれも沖縄の力です。

沖縄はそういうところなのです。

でもリエさんは、石垣島で別れる際、とてもあっさりと去っていきました。かなり寂しかったのを覚えていますが、リエさんはいつもそんな感じ。

いろいろなギャップが同居しています。

旅を終えて、何度か会いました。

遠距離だったので、2度くらいかな。

リエさんが来てくれたのが1度、私が行ったのが1度。

すごく惚れていたというよりは、なんだか自然と、「あ、この人だ」という感じだったかしら。

そういうことが、この世にはあるものですね。不思議なものです。

でも私はコンパでも全くもてないので、自信はなくて、なんとなく飲みながら先輩の中村さんに「好きなひとがいるけど無理だからあきらめるつもり」と相談したところ、「おまえアホか、ビシっと言わんかい」とか何とかアドバイスを受けまして、鹿児島のアミュの最上階で告白したのでした。リエさんはもったいぶっていたので、返事は一ヶ月後。それから遠距離で1年。

勢いで結婚。

回りから見るとスピード結婚だったのですが、この人だと思った自分の直感に間違いはなくて、あれから15年経った今、リエさんで良かったと心から思います。

そろそろユニポス警察に逮捕されそうな私ですが、牢の中でも作文は書けます。「与えられたもの」というテーマで綴ってみました。

「会社」という不思議な「箱」で作っているものは、半導体でだけではなくて、波光電の宮内班長、中西さん、マティ班長、保全の中村さん、結婚式をしたハワイのホテルまでワインを送ってくださった増崎さんや高島さん、熊本時代の盟友たち、U製の保全ニキたち、それからユニポスでつながった半本のみなさまとのプロセスで私の人生の回路は作られています。

この会社でみなさんに出会わなければ娘はもちろんいなかったわけで、与えられたもの、与えてもらったもの、たくさんのことに感謝しています。

みなさんも、「与えられたもの」について、よかったら考えてみてくださいね。

#それでも私はコミュ障です。

#感謝にかえて

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