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kenta no kyujitu

小説 マリーゴールド(継続中)

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娘が生まれる前に綴った小説を、ブログを新設したこの機会にもう一度書き直してみることにしました。

気が向いたときに更新しますので、よかったら見にきてあげてください。

愛娘に贈る

         パパ

1.マリーゴールド

 魔女マリー・ゴールドは、”はじまりの森”のすべてだった。はじまりの森のことで、魔女のマリーが知らないことは何もなかった。
 どうして、いつも夜なのか。
 どうして、いつも雨なのか。
 いつからかはじまりの森に降りだした雨は止まなくなり、そしていつのころからか朝は訪れることを忘れてしまっていた。 森の動物たちはみなそれらの理由を知りたがっていたから、森の東の果てにあるマリーの館には客足の途絶えることがなかった。しかしそのこと、つまり森の秘密について、マリーが他言したことはなかった。

 マリーは老いていた。

 マリーは魔女であったから、主に黒い服を着ることを好んだ。必ずしも色のついた服を着ることが禁じられていたわけではなかったが、彼女は魔女であることを自覚していたし、何より精神的にも、彼女は夜と同じ色を好んだ。たとえば瞳の色までも彼女は黒く、彼女の飼う猫も同じように艶のある黒い毛並をしていた。対照的に、彼女の癖のある髪は朱かった。肌は抜けるように白く、皺は寄っていたが目鼻立ちが整っていたので気品を感じさせた。

 ある夜(と言ってもいつも夜なのだが)、いつものようにマリーの館の呼び鈴が鳴った。マリーはお気に入りの大きな緑色のソファーに包まれるよう座って大好きな煙草をふかしていたが、呼び鈴の音を聞くと客の顔も見ずに言った。
「おや、これは珍しいお客だ」
「誰が来たの?」
 古い衣装棚の上で寝そべっていた黒猫のパセリがそれを聞き、マリーに尋ねた。
「人間だ。出迎えておいで」
「人間?僕人間は見たことないんだ。嫌だなぁ」
 パセリはブツブツと呟きながら、けれどマリーの指示に素直に従い衣装棚から飛び降りると、玄関へ向かってトボトボと歩きはじめた。客人は魔女マリーの館の、必要以上に大きな扉の前で少し緊張しているように見えた。客人は人間の雄で、老けていたけれど銀細工の装飾が施された煌びやかで身分の高そうな衣服を纏っていた。やがて大きな扉がぎしぎしと軋みながら開き始めると、客人は曲がった腰を出来るだけピンと伸ばし前を向いた。
「おじいさん、人間なの?」
 開いた扉の、そのどこからか声が聞こえた。
 客人は少しのあいだ沈黙していたが、やがて「エホン」と一つ咳をすると、か細く、しかしどこかしら強さもある声で「いかにも」と言った。
「おじいさん、なんで来たの?」
 客人は蓄えた白いアゴのヒゲに右の手で一度触れて、曲がった背をもう少しだけ伸ばした。そうしてようやく、声が自らの足元から聞こえていたことに気がついた。
 猫、と客人は思い、「猫」と客人は言った。
 パセリは不思議そうに客人を見上げたまま、「僕はパセリ」と答えた。「みんなそう言うよ」
「これはこれは失礼をした、パセリ殿」と客人は言った。
「わたしはオキザリスと申すもの。エゲレス女王、エリザベート2世の使いで参った」
「ふーん。おじいさん、マリーに会いたいの?」
「いかにも。わたしはマリー・ゴールド殿に用件がある」
「そうなんだ。んじゃついてきて」とパセリは言って、客人に背を向けて歩きはじめた。
「かたじけない」と客人は本当に申し訳なさそうに言いながら、あわてて館のなかに入ると、薄暗いタイル張りのラウンジルームを、パセリの後に続いてペタペタと歩きはじめた。ラウンジルームにはいくつか壁掛けの灯りがあって、鉢植えのオリーブの木やしその葉やバジルが置かれているのが見えた。ラウンジルームを抜けると見える階段をパセリはピョンピョン器用に上り、オキザリスがそれに大またでガシガシと続いた。そうして上りはじめて13段目にある踊り場でオキザリスは少し疲れたので休みたいと思ったが、パセリは気にもとめずピョンピョンと上って行った。オキザリスも続いたが、ほどなくしてパセリの姿は見えなくなってしまった。オキザリスがようやく階段を上り終えると、そこには薄暗い渡り廊下と12の部屋があった。そこで、ようやくオキザリスは自分が迷子になってしまったことに気がついた。
「パセリ殿」
 オキザリスは案内役の黒猫を探したが、暗がりのなかから返答の声は聞こえなかった。仕方なくひとつ目の部屋の扉をおそるおそる開いてみると、そこはバス・ルームだった。長い旅路を雨に打たれながら歩いてきたオキザリスはシャワーを浴びたいと思ったが、そういうわけにも行かず、なにより彼には使命があったので、ひとまずバス・ルームの扉を閉めた。オキザリスがふたつ目の部屋の扉を開けると、そこはベッド・ルームだった。ふかふかのベッドがオキザリスを呼んでいるようにも思えたが、彼には使命があったのでその部屋の扉も閉めた。みっつ目の部屋の扉を開けると、そこには本棚がところせましと並んでいて、よっつ目の部屋には賑やかにハーブティを飲みながら会談をしている5人の太った小人たちがいた。「これはこれは・・・・・・失礼をした」とオキザリスは言って、いったんは部屋の扉を閉めたが、思い直してまた扉を開けると小人たちに尋ねた。
「お取り込み中のところまことに申し訳ないのだが、マリー・ゴールド殿の部屋を教えていただけないだろうか」
 そうしてオキザリスがようやく十二番目のマリーゴールドの部屋を訪ねるころには、待ちぼうけた魔女マリーと黒猫のパセリは眠ってしまっていた。
「エホン」とオキザリスは咳をして、眠っている魔女に向かって問いかけた。
「たいへん申し訳ないのだが」
 マリー・ゴールドはソファーに埋もれるようにして眠っていたが、そうやってオキザリスが何度も問いかけるとようやく目を覚ました。
「なんだい?もう話は聞いたよ」
 目を覚ましてすぐに、マリーはそう言った。何も言っていないのにとオキザリスは思ったが、その疑問を口にするのは失礼なように思えたので黙っていた。
「それで、何か飲むかい?」とマリーは言った。
 オキザリスには大切な使命があったが、それより確かに喉が渇いているかもしれないと思った。魔女の問いに、「かたじけない」とオキザリスは答えた。マリーは煙草に火をつけると、ゆっくりと立ち上がり歩いて白い三段のチェストの左に置かれた赤い木製の小さな冷蔵庫の扉を開いた。
「イチゴ・オレでいいかい?」

 オキザリスは人間の国に生まれた。父は小さな村の鍛冶屋で、母はその村の小学校の教員だった。音楽を専門にしていた母の手ほどきで、オキザリスはヴァイオリンを覚えた。
 十三歳のころ、彼はエゲレスの国の宮廷音楽家になろうと思った。十五歳のころ、彼は鍛冶屋をついでほしいという理由から反対を続けた父のもとを離れ、宮廷で音楽の仕事につくことを選んだ。
 オキザリスには才能があった。小さな村で、彼は誰よりも上手にヴァイオリンを弾いた。それは大国のなかに身を置いても変わらなかった。宮廷の音楽家のなかでも、彼はすぐに頭角を現していった。才能とはそういうものだ。
 二十歳のころ、彼は恋に落ちた。相手は、王国の姫、エリザベート2世だった。彼は、それが許されることのない恋であることを知っていた。若き日のエリザベートは大変に美しく、可憐だった。若き日のオキザリスも大変にもてた。言い寄る女性は多かったが、彼は誰も選ばなかった。五十と五年のあいだ、彼はエリザベードだけを愛した。叶うことがなくとも、愛とはそういうものだ。年をとったオキザリスは要職に就いた。ときには彼の指揮ひとつで、国が動いた。
 イチゴ・オレを飲みながら、オキザリスは何か思考しているように見えた。オキザリスはゆりかごのような椅子に座り、マリーと向き合って座っていた。
「それで、エリザが私に何の用だい?」マリーが言った。
 黒檀で縁取られた四角い窓を、雨が次から次に伝っては落ちていた。パセリが衣装棚の上から二人を見下ろしていた。
「では」
 オキザリスは彼のフトコロから長い巻物を取り出した。巻物には装飾が施されており、彼はそれを大切に広げはじめた。
「失礼のないよう読み上げる」オキザリスは言って、巻物を両の手でいっぱいに広げた。
 はじまりの森の魔女、マリー・ゴールド殿、いや、あたしの古き友マリー

「ふふん」とマリーは鼻で笑った。オキザリスは気にせず読み続けた。
 マリー、久しくしているね。本当ならば会って話したいことだが、あたしも年を取った。森を抜けるのは男のほうが向いているだろうから、信頼のおけるこの男に任せることにした。
 さて、マリー。あたしが手紙を出したのは他でもない、マリー、あなたのことよ。あたしがまだ若いころ、マリー、あなたは言った。「人は誰しもが、使命を持って生まれるんだ」って。それからこう言ったわ。エリザ、おまえにも使命があるのよ。おまえの使命は、国を大切に見守ること。そのためには犠牲にしなければならないものもある。
 オキザリスは淡々とエゲレスの国の女王からの手紙を読んだ。しかし次の一文を口にして、その声色が少し上ずった。
 エリザ、おまえは恋をしているね。相手は宮廷の音楽家オキザリス。教えてあげようか。彼もおまえを愛している。オキザリスは唇をガタガタと震わせ、しかし一呼吸して手紙の続きを読んだ。
 しかし、その恋を、選んではいけない。わかっているね。彼とおまえでは身分が違う。人には使命がある。そのためには犠牲にしなければならないものがあるんだ。それに、頬を寄せることだけが、からだを強く抱きしめることだけが、愛するということじゃない。マリー、あなたは言ったわ。そしてあたしはそれを守った。でも、この年になって思うの。あたしの使命は、この身分は、それは本当に、この感情より、美しい恋よりも大事だったの?ねぇ、マリー。あたしは年をとった。あなたと違ってね。あたしのいのちは、いずれ消える。だからせめて、最後に。彼に、オキザリスに、あたしがどれだけあなたを愛していたのか。
 オキザリスはそこまでを一気に読み上げて、頭を落とした。涙がひと粒、ふた粒、続いて手紙のうえに落ちた。オキザリスは手紙を読んだ。
 マリー、あなたも使命のために、ひとつの恋を捨てた。でも、ほんとうにそれでいいの?
 エゲレスの国の女王、エリザベート2世より、いいえ、あなたの古き友エリザ 
 

 はじまりの森には時間というものがなかったが、それでもずいぶんと長いあいだ、オキザリスは静かに座っていた。マリーも長いあいだ彼を見つめていたが、やがてしびれを切らしたように言った。
「悪かったね」
 オキザリスはゆりかごのような椅子から立ち上がると、曲がった背を出来るだけピンと伸ばしてマリーを見つめた。「何も」オキザリスは言った。マリーもお気に入りの大きな緑色のソファーから立ち上がると、ゆっくりとオキザリスのもとに歩み、そして彼を抱きしめた。
「でも、わかっているね。この森に、人間が立ち 入るといるということは」
「からだなど、いのちなど、惜しくはない。いやむしろそれこそ本望である。愛するものの頼みであれば」
「悪かったね」
 マリーに抱きしめられたまま、オキザリスのからだは音もなく形を消した。マリーはしばらく色も形もないただの空白を抱きしめていたが、やがてひとつのふかいため息をついた。
「マリー?」いつのまに衣装棚の上から姿を消したパセリがマリーの足元にからだを擦り付けていた。「ねぇ、パセリ。もうずいぶんと長いあいだ、月を見ていないね」マリーは言った。
 ゆりかごのような椅子がゆれていた。窓を伝う雨が、誰かを呼び続けているよ
うに音を立てる。
「朝の光もね」パセリが言った。
「さて忙しくなるよ。彼に、あたらしいからだを用意しなければいけない」とマリーは言って、パセリを抱えあげた。
「あたらしい、いのちもね」彼女の腕のなかで、パセリは言った。

2.夏の終わり

 このところずっと雨が降っている。8月というのに冷え込み、シャツ1枚では寒いくらいだ。部屋の長細い埋め込み式の窓から降り続く雨を見ながら、ふと娘が生まれた日のことを思い出した。

 この世に生まれ落ちた時、娘は息をしていなかった。数秒だったのか、数分だったのか、時間の感覚が失われた意識の中で、先生が必死にマッサージをしているのが見えた。娘の泣き声が聞こえて、僕は思わず声を上げて泣いた。先生も助産師さんも居たが、不思議と恥ずかしいとは思わなかった。それよりもただ、嬉しかった。泣きじゃくる僕に、あなたなら大丈夫ですねと、助産師さんが言った。

 生まれてくるということは、あたりまえのことではない。おなかの中で育つことが出来ない場合もあるし、息をして生まれてくることの出来ない子供もたくさんいる。だから小さな命が泣き声を上げたことが本当に嬉しかった。母親の両手の中に預けられた娘を見て、この世で最も高価な宝ものだと思った。いや、それ以上かもしれない。

 雨はもう7日は降り続いているだろうか。僕は性分が暗い人間なので、雨は嫌いではない。むしろ曇天の空が私という人間の評価に見合っているようで妙に落ち着くのだ。ただ、欠点がある。雨の日は、月が見えない。私は月が好きだ。

 娘が生後2ヶ月になった日から、僕は娘と暮らし始めた。最初のころはベビーカーにのせて、少し大きくなってからは抱っこをして、毎日2,3時間ほど散歩をした。ずいぶん遠くまで歩きながら、いろんなことを話して聞かせた。そして話の終わりには必ずこう言った。生まれてきてくれて、ありがとう、と。

 娘が歩けるようになってからは、散歩の距離が減った。娘の足では、あまり遠くまで行けなかったからだ。近所の公園まで出かけて、帰ってくるのが日課となった。そういえば一度、不思議なことがあった。空を透明の一反木綿のような物体がひらひらしながら飛んでいた。両脇に無数のヒレのようなものがついていて、尾っぽは細くとがっていた。何だろうね、騒いでいると物体は屋根の向こうに消えた。あとで考えて、あれがスカイフィッシュだったのかもしれないと思い、娘に教えたのだ。

 公園までの道の途中には細い川があって、柵で立ち入ることのできないようになっている。柵の向こうには松の木があって、娘によく松ぼっくりが欲しいと頼まれた。柵を乗り越えて松ぼっくりをいくつも拾い集め、また柵を越えて戻ってくる。パパは世界で一番強いから大丈夫だけれど、君は絶対に向こう側に行ったらダメだよ。川の横に開いている穴には河童さんが住んでいて、小さな子供をつかまえて食べるんだよ。

 彼女は神妙な顔をして、川のほうには絶対に行かないといった。危険なことを教えるのは親の務めだ。娘の真新しい頭の中に一つずつ記憶が刷り込まれていく。河童という謎の生き物。そして、パパは強いんだということ。

 散歩は娘に言葉を与えた。あれは空だよ、雲、鳥、星、葉っぱ、蜘蛛の巣、赤い花、黄色い花、つぼみ、バッタ、犬、猫、それから、月。

 月は毎日変化する。幼い娘にはそれが不思議なようで、ある時に月がはんぶんこしちゃったとつぶやいた。はんぶんこしちゃった。あとはんぶんはどこに行っちゃったんだろう。どこだろうと僕も考えた。この広くて暗い空のどこかに、もうはんぶんの月があるのだろうか。じゃあ買いに行こうかと娘が言った。あとはんぶんこをスーパーで買って、のりのりしてはりはりしたら良いね。そうだね。

 スーパーに辿り着いたとき、娘はもう夢の中にいた。残念だったけれど、せっかく来たのでビールを一缶買って帰った。帰り道も娘は眠っていた。胸の中の温かいぬくもりが、生きていることの幸福な方の面を教えてくれる。月は変わらずに、はんぶんこのままだった。ようやく家の玄関に辿り着いたとき、娘が目覚めて、はんぶんこ買うのわすれてたと叫んだ。せっかく寝かせた努力が無駄になったと思ったが、良いんだよ、頭をなぜて、もう少し強く抱きしめた。焦らなくても、もうはんぶんの月は、ちゃんとここにある。

 ニュースではこれまで経験したことのない大雨。雨はときに大きな被害を与える。人間なんてちっぽけなものだ。地球があと少し機嫌を損ねたら、僕らは簡単に滅亡してしまうんだろう。でも、たとえ磁力が崩れて地球の回転が止まってしまったときでさえ、僕は彼女の小さな命を守りたいと思う。特別な宝物なのだ。

 暗い空の向こう、雲の向こうに、今日だって本当は月がある。今日の月は半分こなのか、それともまんまるなのか、僕にはわからない。

3.クランベリー

 どこにだって月はある。みな月の下に居る。どこかの月の下の、どこかの森の、どこか木の下。ずっと遠くなのか、それとも車に乗ればたどり着ける距離なのか、分からないけれど、ほとんどの場合それは大きな問題ではない。今日僕らが見ている月が細ければ、その森の月も細い。確かに分かっていることは、それくらいだ。

 月明りの零れる木々の葉の下で、枯れ葉にうずもれるように水鹿の母子が眠っていた。彼らの仲間は雄だけに角が在って、みな一様に鋭く空を向いていたが、この小鹿の角に限ってはなぜか貝のようにくるくると巻いていたので、森の動物たちは親しみを込めて巻き角の坊や、と呼んでいた。

 水鹿の群れは小さかったが、巻き角の坊やの父親はその中で一応、リーダーの務めを果たしていた。グループの中で、いちばん立派な角を持っていたことが、それを決定づけた理由だった。眠る母子を残して、父親は大人の雄だけを連れて水辺へ向かっていた。彼らは泥遊びが好きだったが、水辺に向かった理由はそれではなかった。魔女が現れたのだ。

 断っておくが、彼ら水鹿の仲間は戦いを好まない。それでも戦わなければならない明確な理由が彼ら大人の雄鹿たちにはあった。守るべきもののためだ。

 恐ろしいことにこの小さな森には12人の魔女が居て、すべてが悪い魔女と限ったわけではなかったが、その中の数人は夜の間に森の動物の子供たちをさらった。なぜ魔女が動物の子供たちを連れ去るのか、誰もその理由は知らなかったが、兎に角森の動物たちにとって魔女は敵であった。

 最初に気付いたのはフクロウのアーティーチョークだった。彼は非常に賢い男で、よく見える目を持っていた。夜の闇の中でも、彼にははっきりとその姿が見えた。いや、彼でなくても気づいただろう。背丈に見合わない六寸伸の長い弓を持つ彼女の姿は、闇の中に居てもそのシルエットを際立たせていた。「狩る者」、森で最も恐れられた彼女はそう呼ばれていた。

「狩る者があらわれた」

 ふくろうのアーティーチョークはそう呟いて、短くフォッフォッフォーと鳴いた。小さな森にその声がこだまして、寝静まっていた動物たちはみな飛び起きた。狩る者の恐ろしさはみなよく知っていた。森の動物たちが束になったとしても到底、敵う相手ではない。それでも彼らは戦わなければならなかった。命をかけても守らなければいけないものが在る。父親になれば、誰もが背負う使命だ。

 巻き角の坊やの父もまた、その一人だった。彼にはさらに特別な使命があった。群れを守る。それがリーダーである彼の仕事だった。

「オニゲシ、魔女は湖のほとりから森の中に入ったようです」

 一頭の若い鹿が群れのリーダーに報告した。オニゲシ。それが巻き角の坊やの父親の名前だった。

「森の中!?子供たちが眠っている。急ぐぞ!!」

 オニゲシの指示で、群れは森の中へ引き返した。出来れば水辺で足止めしたかったが、遅かった。であれば森の中にとどまり、魔女を迎え撃つ態勢を整えておけばよかった。オニザシは後悔していた。フォーッ、フォーッツ、一段と強く、アーティーチョークの鳴く声が森にこだましている。

 狩る者は、その日の獲物を見つけていた。頭にクルクルと巻く角をつけた小鹿の坊や。

「クランベリー、あの子を連れて行くのかい?」

 そうよ、と狩る者は答えた。そうかいと声は答えた。クランベリーは森でいちばん大きな木の上に居た。枝の一つに立ち、小さな木のしたで眠る一頭の小鹿を見つめていた。

「それが、あたしの使命なの」

 わかっているよと声は答えた。声はクランベリーの足元から聞こえていた。

「まだ小さな子供。パパとママが必要な年よ」

 わかっているよと声は答えた。声の主は理解していた。聞いてあげるだけで良い。魔女とはいえ、まだとしはもいかない女の子なのだ。狩る者と呼ばれ、その使命を背負わされて、ずいぶん背伸びもしているんだろう。

「わたしには何でも分かっているよクランベリー」

 大きくて優しい声だった。ありがとう、ポポーの木さん。

「あぁ、クランベリー。その名前で呼んでくれるのは、森の中で、いや、世界のなかで、いいや、宇宙の果てまでたどっても君だけだ。でもわたしは本当のところ、もはやポポーの木ですらない。名もなき、ただの大きな木。わたしには、もう、生きている理由がないんだ」

 ずいぶんと昔のことだ。西の森に雷が落ちた。雷は西の森の大きな木の上に落ちて、その木を深く貫いた。そのときから大きな木には大きな穴が開いていて、それはお洒落だった大きな木 にとって悩みの種となった。

「あの落雷がなければ」と大きな木は語り始めた。

 あの落雷がなければ、わたしは今もたくさんの枝を生やしていたことだろう。あの落雷がなければ、今日だってわたしをたくさんの若葉が包んでいた。うつろいゆく季節のなかで、わたしは艶やかな花を咲かせ、そして可憐な緑色の木の実を生んだはず。それがどうだ。今やわたしは、森の住人たちにとって、ただ大きいだけの木にすぎない。ねぇ、クランベリー。美しい君には分からないだろう。わたしにだって種類というものがあるんだ。でもそのことを誰も知らない。わたしはただ、大きいだけの木にすぎない。あの日の、たったひと時の落雷が、わたしの時間のすべてを奪ったんだ。

「そんなことないわ。ポポーの木さん」と魔女クランベリーは言った。

「あなたは美しいわ。どうしてって?教えてあげましょうか。たしかにあなたはチョコレート色の花を咲かすことも、種がたくさん詰まった美味しい果実を作ることもない。でもね、あなたは森の住人たちにとって、なくてはならない木なの。どれだけの大人たちが、あなたのしたで愛を語り合ったことでしょう。どれだけの子供たちが、あなたのおかげで迷子にならずにすんでいることでしょう。あなたに開いた穴は、あなたにとってはコンプレックスかも知れないわ。でも、それが何だというの。あなたの穴のなかで、この森のたくさんのルールができたのよ。あなたは必要とされているの。どんな花を咲かせてみせることより、どんな果実を作り出すことよりも、それって美しいことだわ」

 大きな木は肩をふるわせて泣いた。プライドの高い大きな木にとって、存在の理由はとても重要だったからだ。あぁ、クランベリー。これからもずっと、わたしの友達でいてくれるかい?葉のないわたしは、君の傘になってあげることもできないけれど。

「もちろんよ。ポポーの木さん」
 夜のなかで、魔女クランベリーは大きな木の幹にキスをした。
「心配しなくていいのよ。あたしたちはいつまでも友達で、それから大切な仲間よ」

 孤独な木は、もう自分をとりもどしていた。

「ほうら」と大きな木はいった。

「君は美しい。とても若い。そして何よりも、本当に優しい」

 ありがとうと言って、大きな木は急に静かになった。たくさん会話をしたから、つかれて眠ってしまったのだろうとクランベリーは思った。

 クランベリーは大きな木の枝から、音もなく飛び降りた。小さな背丈をすっぽりと覆う漆黒のマントが唯一の音を見せるかのようにひるがえっている。彼女は静かに地面に降り立つと、大きな弓を抱えたまま走り出した。森に戻ってきた水鹿の群れが、それに気付き身構える。「狩る者だ」。「魔女が現れた」。水鹿たちは口々に叫び、やがてオニゲシを先頭にしてクランベリーを迎え撃つように走り始める。「邪魔よ」。短く叫ぶと、クランベリーは背から弓を一つ抜き、目もくらむような速さで構える。走りながら弓矢を持った両肩を上に持ち上げ、弓を押して弦を引くと、両拳を左右に開きながら引き下ろし、それを離した。その仕業は天使のように美しいけれど、時間は悪魔のように残酷に過ぎていく。矢はオニゲシの額からまっすぐ体を貫通し、勇敢な雄鹿はその場に倒れる。水鹿たちは彼の名を叫び、みな崩れ落ちてしまう。残りの時間は時が止まったようだった。

 小さな魔女は倒れこむ水鹿の群れの真ん中をまるで気取った猫のように歩き、巻き角の坊やのもとへ辿り着いた。彼女以外の時間は止まっており、母親ですらそれに抗うことはできなかった。
クランベリーは巻き角の坊やを両腕で抱えあげた。巻き角の坊やは重力を失ったように持ち上げられ、次の瞬間には空の上にいた。あらかじめ約束されていた物語のように、誰も、何もできなかった。

 クランベリーはポポーの木のいちばん上に戻り、大きな枝に巻き角の坊やをそっとおろした。
「パパは死んじゃったの?」
 巻き角の坊やは一番気になっていたことを聞いた。
「まさか」
 どこからか声がした。
「魔女の矢は命を奪わない。ただほんのちょっとだけ、時間を奪ったのだよ」
「よかった」
 巻き角の坊やは答え、それから夢の続きに戻るように目を閉じた。まだ小さな坊やにはすべてが夢の中の出来事のように思えた。
「ゆっくり眠りなさい。目が覚めたとき、あなたは歩きださなければいけないのだから」。
 優しい声で、クランベリーは言った。
「あなたには使命があるの。それに、新しい名前もね」。

 夜の闇の中で、大きな木の枝の、いくつか残っている枯れた葉が揺れていた。
「オキザリス。それが、あなたの新しい名前」。夢の中で、彼女の声が聞こえていた。

4.死と眠り

 娘が生まれてから最初の数か月は、本当に疲れていた。これほど泣き叫ぶ生き物の世話を、たったの二人でしなければいけなかったからだ。娘はとにかく声が大きくて、近所の人に虐待を疑われているのではないかしらと心配したほどだ。そして、とにかく眠るのが下手だった。

赤ちゃんにとって眠るということは、自分の存在がこの世から消えてしまうことと同じであり、それに対して大きな恐怖心が呼び起こされる

フロイト


 古の哲学者に救いを求め、その言葉にひどく納得した。眠ることが命を失うことと同じであれば、これほどまでに眠ることを恐れるのも分かる。ある意味では死という概念に対応できるほどの、安心を求められているのだ。まるで熟練の鋳物師が生涯最後の仕事に作った聖火台のように、経験と技能の求められる仕事だ。

 抱きしめて、安心させる。親の愛を教える。これは難しい作業ではない。胸の中で、娘はすぐに眠ってくれた。そのまま一緒にベッドに横になり、おなかの上に乗せた娘を抱きしめて眠る。これで朝まで動かなければ問題ないのだが、用事があって娘だけを寝かせなければいけない時は、とにかく苦労した。背中に設置された一人ぼっちセンサーは敏感で、すぐに目を開けて泣き叫ぶ。対策は、出来るだけ抱っこしたまま深い眠りに持って行くこと。30分、40分は抱っこしたまま眠り、深い寝息に変わったところで出来るだけ気付かれないように優しくスライドさせる。どうしても最後に腕が残り、腕を引き抜きときに目を覚ますことも多かった。

 眠ることは、死と同じではないのだと、口で言っても分かる年ではないから、一つ一つの作業を出来るだけ丁寧に、時間をかけて行う必要があった。なんとか寝かしつけても、夜中は何度も目を覚まし、泣いた。夜中に抱っこしたまま散歩にでかけ、寝かせることも多かった。

 睡眠不足なのか体力的に疲れているのか、お椀を持つ力がないときもあった。味噌汁をこぼし、でもそれが不注意ではないことに気づいていた。単純に、力が入らなかったのだ。世の中のすべての子供が娘のように大変なのか、それとも娘だけが例外的にこんなに大変なのか、どちらが真実なのか分からなかった。ただただ、可愛いと大変の狭間で、彼女の世話に明け暮れていた。もう一度あの時間が来たら、同じことが出来る自信はない。

 ただ、そうやって寝かしつけた娘の寝顔はとんでもなく可愛かった。生きている意味が、そこに在った。どうしてこんなに可愛い生き物がこの世に存在しているのか、毎日不思議に思うほどだった。その生き物は、少しずつ表情を持つようになった。表情だけで、何を考えているのか分かった。おなかがすいた。おしっこがでた。ねむたい。

 自分のことだけ考えていた時間が、娘のことだけを考える時間に変わった。親になるということを、そうやって少しずつ理解していった。

 ある時から、隣に寝転んでいれば抱っこをせずに眠ってくれるようになった。眠ることが死と同じではないことを、ようやく理解してくれたのだろうと思った。ただ、眠るのは下手なままだった。いつまでも話をしていたり、目を閉じていても眠れず手や足を動かしていた。
 小さいころはお化けのマネをして寝かせ、話しが出来るようになってからは口裂け女がやってくると教えて寝かせた。

 僕が小さいころ何よりも怖かったのは口裂け女だった。その物語はリアルだったから、本当に口裂け女が存在するのだと信じていた。リアルであることが大切だったから、ディテールにはこだわった。昨日は福岡県にいたらしい。今日は熊本県に来たらしい。もしかすると今は、家の玄関のところまで来ているかもしれない。口裂け女は眠っている子供は連れて行かないから、早く目を閉じて眠りなさい。

 本当に怖かったようで、口裂け女の、口裂けというところまで話すと目を閉じて眠る努力をしていた。娘は口裂け女のことを、口裂けというようになった。ママ、早く寝ないと口裂けがくるってパパが言ってたよ。ある時はいつまでも寝ないママを心配して声をかけ、良いからあなたが早く寝なさいと怒られていた。

 夜中に目を覚ますことは少なくなった。寝言は多いタイプで、いつも楽しい夢ばかり見ていた。幼稚園のお友達と遊んでいる夢だったり、ママに内緒でパパにアイスクリームを買ってもらっている夢だったり、料理をしている夢。

 1歳になるころは何度も高熱を出した。連日40℃を超える高熱は、初めて親を経験する僕をとても心配させた。解熱剤を飲ませても、すぐに効果は切れた。お医者さんにはあんまり飲ませてもいけないと言われ、出来ることもなくただうろたえていた。夜は抱っこしている時だけ眠れるようだったから、抱っこして朝まで外を歩いた。歩道にはベンチがなく、年寄には優しくない町だ、なんてことを考えながら歩いた。

 パパが居るから大丈夫だよ。パパが守ってあげるから大丈夫。心配しなくて良いよ、パパがずっと抱っこしてあげるからね。遠くの神社まで歩いて、居るのかもわからない神様に祈った。娘の熱を僕に移すか、僕の寿命を縮めてくれても良いから娘を助けてくれるようお祈りした。

 子供の熱がすぐに上がること、高熱が続いてもそれほど心配しなくて良い事など、そのときは知らなかった。ただ、娘に少しの危険も加えないよう、神様に祈ったのだ。本当に大切な子供の無事を祈る時、親というのは疲れないことを知った。眠らなくても大丈夫だった。本当の強さとは、そういうことを指すのだろう。
 子供を虐待し、眠らせない親がいるとニュースで報じていた。僕は、その親は本当に人間なのだろうかと疑う。命より大切な子どもを、親が虐待するなんて。眠ることが死ぬことではないことを時間をかけて教えてあげなければいけない親が、子供を眠らせないことで死の世界へ連れて行ってしまうなんて。娘と同じくらいの年の子供だったせいか、可哀想で涙が止まらなかった。

 書くことで変わるような世界ではないのかもしれないけれど、書いたところで伝わるような人間ではないのかもしれないけれど、どうしたら子供が救われるのか考えたときに、僕に出来ることは、やはり書くことしかないのかもしれない。あなたの子供は、あなたの愛で眠るのだ。おでこにキスをして、頬にキスをして、愛しているよ、大丈夫だよ。パパ帰って来たよ、パパここにいるからね。また明日遊ぼうね。おやすみ。

 聞こえていなくても関係ない。パパはここに居て、君は眠っている。夢から覚めたら、美しい明日が訪れる。

5.オキザリス

 夢から覚めたら、雨が降っていた。僕には新しい名前と身体が用意されていて、シメイというものがあるらしい。僕を連れ去った魔女が言っていた。新しい名前はオキザリス。新しい身体は、言いにくいんだけれど、人間のものだった。でも頭にはちゃんと角が残っていたから安心した。これがあればまだ、ママやパパはちゃんと気づいてくれる。クルクルと巻いた角を持った人間なんて、僕以外に居るわけがないもの。魔女たちが隣の部屋で何か話している。耳を澄ませると聞こえてくる。ジョウホウが必要なんだ。ここに来て、これまでに僕が得たジョウホウは、名前と新しい身体、シメイ、それからどうやらここは雨が降る森だってこと。パパから聞いたことがある。ずっと遠いところに、雨の降る森があって、そこには森で最も偉大な魔女が住んでいる。そしてこの森には、朝が来ない。

 扉が開いた。古い扉のようだ。ギシギシときしむ音でそれが分かる。僕は目を閉じて、眠ったふりをする。分からないことがある。どうして魔女は僕を連れ去って、人間の身体に変えてしまったのか。それから、僕のシメイって何なのか。どうしたら元の姿に戻って、ママやパパの元に帰れるのか。あきらめてはいけないんだ。パパが言っていたもの。あきらめなければ、ちゃんと夢はかなうって。ママもパパも居ないけれど、僕ひとりだってちゃんとやれるはずだ。だって僕はパパの子供だもの。パパは世界でいちばん強いんだ。その息子の僕が弱いなんて知ったら、きっとママが悲しむ。あなたはパパの子供よ。だからとても強いのって、いつも教えてくれたもの。

 魔女たちが入ってきた。はだかんぼうだとか、あかんぼうだとか、口々に好きなことを言っている。魔女は、いち、に、さん、し、ご・・・・・・.。これ以上は数えきれないけれど、とにかくたくさん居る。

「起きなさい。眠ったふりをしているのはわかっているよ」

 大きな声で、僕は飛び起きた。朱い髪の老女だ。静かな話し方だけれど、とても怖い。肌に雷が落ちたように、僕は全身を硬直させた。

「なれない身体で立ち上がるのも大変だろう。でもすぐに慣れてもらわないと困る。とにかく忙しいんだ。オキザリス、おまえさんにはたくさんの仕事がある。何度も言わないからちゃんと聞いておきなさい。クランベリー」

 朱い髪の老女に呼ばれた若い魔女が言う。

「言いことオキザリス。あなたには使命があるわ。それはとても大変な仕事よ。でもあなたならきっと、ちゃんと出来るって信じてる。この森、はじまりの森はずっと雨が降っているの。その雨を終わらせてくること。簡単に言えばそれだけ。でも今まで、誰もこの仕事を成し遂げた人間はいないの」

「雨を終わらせるの?僕が?」

 おそるおそる答えてみる。「ちゃんと聞こえているじゃないか」。振り返ると、小さな黒猫がそこに居た。「なんだ猫か」と僕が言うと、「失礼だな。僕はパセリ。みんなそう言うよ」。

「そうだ。この子ひとりでは大変だろうから。パセリ、おまえが手伝ってあげなさい」。

「嫌だなぁ。僕、面倒なことは嫌いなんだ。ずっと寝ていたいくらいなんだけれど、マリーが言うなら仕方ないね。じゃぁさっさとこの仕事を終わらせて、早いところ眠りにつかなくっちゃ」。

  それから12人の魔女は支度をはじめた。ある魔女は僕のために服を縫い、ある魔女は地図を書いてくれた。ある魔女は果物のたくさん入ったお弁当を作り、ある魔女は僕の髪をとかした。ある魔女は僕をバス・ルームに連れて行き、身体の隅々まで洗ってくれた。次第に身体の使い方が分かってきた。後ろ足だけで立ち上がり、前足は器用にものを掴むことができる。それどころかこの指は、豆よりも小さなものを摘まむことが出来る。右手の指は、1,2,3,4,5。左手の指も、1,2,3,4,5。並べてみると順番は反対だ。身体には毛が無くて、だからとても寒い。本当にこの身体でシメイを果たすことが出来るのか、頼りないほどに弱弱しい。パセリはずっと僕についてきた。猫のくせにずいぶんと上からものを言ってくる。ちゃんと準備しておかないと僕は知らないよ。館を出たら魔女は助けてくれないんだ。自分のことは、自分でやらないとね。そんなことは分かってると言い返したいけれど、今は魔女にすべてのことをやってもらってるので言い返せない。

「君っていくつなの?」

 パセリはしばらく考えて、100回の誕生日までは数えていたけれど、もう分からないと答えた。ずいぶん小さいのに、そんなにおじいさんなのか。でも、そんなの関係ない。何歳生きていようと、猫は猫だ。僕は世界でいちばん強いオニゲシの息子で、まだ何年も生きてはいないけれど頑張って生きている。

 魔女は僕に仕立ての良い白い布地で出来た服をすっぽりとかぶせてくれた。それはワンピースのようで足をすっぽり隠してしまったけれど、今度は木の皮で出来たベルトでワンピースをたくし上げ、ベルトで縛ってくれた。ずいぶん女の子みたいになってしまったけれど、これはこれで動きやすいので良しとする。僕は地図を持って、館を出る。黒猫が面倒くさそうにトボトボと後ろをついてくる。

「とりあえず地図を見てみよう」

 独り言のようにつぶやいて、もらったばかりの地図を広げてみる。いくつかの山と、たくさんの木が画かれている。地図の端っこには立派な館が掛かれている。館には何か文字が書かれている。

「何て書いてあるんだろう」

 また独り言のようにつぶやくと、パセリが面倒くさそうに地図をのぞいて、そんなことも分からないか人間は、と言った。人間と言ったって、僕はまだ生まれたばかりなのに。じゃぁ、何て書いてあるのさ。尋ねると、わからないけれどそうだな。たぶん、きっと、おわりの森だよ。

「なんでわからないのにわかるのさ」

 決まってると黒猫入った。おわりの森には古い館があって、そこにはこの世で最も恐ろしい吸血鬼の伯爵が住んでいるんだ。そんなところ、と僕は叫んだ。

「そんなところ、なんで行かないといけないんだよ」

 決まってると黒猫は面倒くさそうに言った。だって、地図に書いてあるからさ。

「いかれてるよ」と僕は言った。地図に書いてあるから行かなければいけないだって?そんなのいかれている。恐ろしい吸血鬼の伯爵が住んでいると分かっているのにわざわざそこに向かうなんて、まるで食べられるのを分かっているのに自分で罠にはまってしまう小鹿みたいだ。

「うまいこと言うね、だけれど」

 黒猫は感心したように、でもやっぱり面倒くさそうに言った。

「だけれど、行かなければいけないから、行かなければいけないんだよ。だって君は雨を終わらせに行くんだろう。だったら、館に行かなければいけないんだ。なぜって、雨は伯爵が降らせているんだから」。

 そこで初めて、僕はとんでもない冒険に巻き込まれてしまったことに気が付いた。誰もこの仕事を終わらせた人間は居ないんだって、クランべリーは言った。それって、どういう意味だろう。失敗したら、死んでしまうのかしら。それとも吸血鬼の伯爵に捕まって、血を吸われてしまうのかもしれない。残りの一滴まで飲み干されて、伯爵は満足したようにこう言うんだ。馬鹿な人間の子供がまたのこのことやってきた。子供の生き血は美味しいけれど、でもたったこれっぽち。腹の足しにもなりゃしない。あぁ、またつまらないことに時間を使ってしまった。

「いつまでぶつぶつ呟いているんだ」

 黒猫が言う。考えている時間があったら、足を動かしなよ。前に進まなければ、終わる冒険も終わらない。吸血鬼の伯爵が怖いかなんて、まだ何も分からないじゃないか。推測なんか意味がない。ちゃんと自分の目で見なくっちゃ。本当のことは、何も分からないままだよ。

 一理あると僕は思った。小さい猫だけれど、それなりに良いことを言う。さすがは100年も生きているだけはある。猫だって100年も生きれば、それなりに、立派な猫になるに違いない。それにしても暗い。月がないから、まっくらだ。せっかくの真新しい服を雨が濡らし、気分は最悪に近い。道も、僕の森よりずっと悪い。パパたちが踏み固めて作ってくれた獣道と違って、ここはただ草木がしげっているだけだ。雨でぬかるんだ泥が、僕の足を取る。もし前の身体だったら、こんなの何てことなかったけれど。新しい人間の体は、すぐに泥にすべるし、すぐに傷がついてしまう。なんで人間は、こんな身体になってしまったのだろう。

 黒猫はぴょんぴょんと足場を選びながら進んでいく。猫は良いな。身体が小さいから、身軽だ。あの猫に僕の今の気持ちなんて分からないに違いない。僕だって鹿のままだったら、もっとずっと早く歩くことが出来るんだ。あとどれくらいあるけば、おわりの森に辿り着くのだろう。少し疲れてしまった。僕は座り込む。

「何だよ。まだ歩き始めたばかりじゃないか」

 黒猫が面倒くさそうに言ってくるけれど、彼には僕の身体のことは分からない。だってとてもきついんだ。少し歩くだけで、ずいぶん疲れてしまう。どうせなら人間じゃなくて、鳥にしてくれたら良かったのに。だったら羽をばたつかせれば、すぐに館に辿り着くことが出来るのに。

「羽があれば良かったのにって思ってるの?」

 見透かしたように黒猫が言う。なんで分かるのさ?尋ねると黒猫は言う。

「だって僕は100年も生きてるんだ。猫も100年生きると魔女みたいに何でも分かるようになるのさ」

 嫌な能力だなと僕は思う。人の頭の中が分かって、何の良いことがあるんだろう。必要なことは口で言うし、それ以外のことは知らないことが良い場合が多い。でもこの考えだって、きっと黒猫に見透かされているんだろうと思うと憂鬱になる。

「それなら早く言ってくれたらよかったのに。羽なんかなくても空は飛べる。たとえば、空飛ぶ魚に頼むとか」

 空を飛ぶ魚?僕は驚いて尋ねる。そう。透明な魚なんだ。布のように平べったくて、ムカデのようにたくさんの足がある。身体は透明で、向こうの景色が透けて見えるんだ。でもって、とても速い。君の歩くスピードより、100倍とか、や、もっと早いかもしれない。だから空飛ぶ魚に乗れば、伯爵の館なんてあっというまに辿り着く。それで、ジ・エンドさ。

 最後の一言が気になったが、僕は嬉しかった。というか、もっと早く言ってくれればよかったのにと思った。なかなか気の利かない猫だ。

「本来は、自分で歩くのが王道だよ」

 黒猫がつぶやく。でも空飛ぶ魚は、見つけるのがとても大変なんだ。だって、本当に、とっても早いんだから。闇雲に網を振り回しても掴まるわけがない。目には見えないくらいのスピードだからね。

「そんなの、じゃぁどうやって捕まえるんだよ」

「決まってる。待つんだ」

「待つ?」

「そう。山の高いところに網をおいて、ずっと待つんだ。だって空飛ぶ魚は丸い輪が大好きだからね。思わずくぐっちゃうんだ。でも、そのためにはとても透明の網を作らないといけない。なぜって、網があると空飛ぶ魚がくぐるわけがないからね」

 100年も生きているだけあって、なんでも知ってるんだなと僕は感心する。僕たちは透明の網を作ることにした。それでいて、強度がなければいけない。目にも見えない魚が飛び込んでくるだ。せっかく捕まえても網がやぶれてしまったら元の木阿弥だ。木々の枝に張った蜘蛛の糸をいくつも集めてきて、数本をひとつの束にして編んだ。それでも突き破ってしまうかもしれないと、その束と束をいつも重ねてさらに編んだ。途方もない時間だったけれど、歩いていくよりずっと早く着けるのだから仕方がない。次に木の枝で枠を作って、編んだ雲の糸を一束ずつしっかりと張り巡らせて行った。

 ようやく網が完成したので、いちばん近い山に運んだ。山は頂上が半分に崩れ落ちたような形状の崖になっていて、パセリによると空飛ぶ魚はそこに住んでいるということだった。山の頂上から、掛けの方に向かって網を張る。僕らは雨をよけるように木の下で眠り、空飛ぶ魚がかかるまで何日も待った。そうはいっても時間の概念は無い森だったから、本当のことを言うと1日も待っていないのかもしれない。でも、ずいぶんと長い間、僕らはそこで待ち続けた。その間、僕らはたくさんの話をした。パセリの夢の話。猫らしく気ままで自由でわがままな夢だった。寝転んだままご飯が食べられてくるのが、猫にとって最大の贅沢らしい。僕は森の話をした。パパの話。パパは今、どうしているんだろう。僕のことを心配して、まいにち探し回っているかもしれない。ママ。ママなんか心配すぎて、夜も眠れないだろう。パパもママも、僕を何より大切にしてくれた。

 ずいぶんと長い間、もしかするとほんの一瞬だったかもしれないけれど、とりあえず空飛ぶ魚はつかまった。魚は網の中でしばらく暴れまわっていたけれど、やがて観念したように動かなくなった。僕らは丁寧に時間をかけて説明をした。危害を加えるつもりはないこと。僕らを、おわりの森に連れていってほしいこと。それには、空飛ぶ魚のスピードが絶対的に必要なこと。雲の糸で身体がべたべたしたことを謝って、一つ一つ、その糸を外していった。

「だからってこんな乱暴する必要ないじゃないか」

 魚は怒っていたけれど、本当に怒っていたのはそこではなかった。

「そもそも僕は、空飛ぶ魚じゃない。ちゃんとスカイフィッシュって言う名前があるんだ」

 僕たちはただ、平謝りだった。あたりまえだ。何も悪くないスカイフィッシュを、自分たちのためにひどい目に合わせたのだから。でも僕らの夢の実現には、彼の犠牲が必要だったのだ。ひどい論理だけれど、仕方がない。そもそも利己的な生き物なのだ。人間とか、猫という生き物は特に。

「仕方がないな」

 あきらめたようにスカイフィッシュは言った。でもおわりの森まで運んだ暁には、ちゃんと僕を開放してくれよ。君たちのために使える時間は、僕らの短い生涯ではほんの僅かなものなのだから。

「もちろんだとも」

 猫は言い、僕も続いた。それから僕らは彼の背に乗って、おわりの森に向かった。馬鹿らしいほどに、それはほんとうに一瞬の出来事だった。夢から覚めたた時のように、気が付いたら僕らは伯爵の館に居て、そして空飛ぶ魚、や、スカイフィッシュはもうそこに居なかった。

6.骨とメメ

 生きていることを実感できるのは、魚釣りをしているときだ。カヤックにのって、広い海の真ん中に浮かぶ。人間なんてちっぽけな生き物だ。自然の前では本当に、とても小さい存在であることを知る。そして一人だ。だけれどそれが何にも代えがたい高揚感を僕にもたらす。裸のままの本能で、僕は釣り糸を垂らす。水深は100メートル。生きるために僕は狩る。

 自分で狩った獲物を持って、陸地に向かう。魚をさばき、火を起こし、焼く。自然の中で、僕は自分の力だけで生きている。ここに居ると、たくさんのことを考えなければいけない。一人だから寂しいなんて思っている時間はない。兎に角、生きるんだ。僕らが忘れてしまった生活が、無人島で過ごすキャンプにはある。自分を守ってくれるのは狩りの腕と、知識と、体力だけ。

 魚釣りは考えることが多い。釣れなかったときは特に、なぜダメだったのかを考え、改善点を見つける。準備し、イメージし、また次の戦いに備える。それでもまた釣れなかったりする。相手は自然なのだ。人間の知恵なんて、彼らのまえではほんのちっぽけなものだ。でもそうやって積み重ねた知識は本物だ。一朝一夕で得られるものではない。

 娘は3歳で魚を釣った。餌ではなく、疑似餌で、はじめて釣り上げた魚は小さなカサゴだった。食べたいと言い続ける娘に、僕は言った。まだ赤ん坊だから逃がしてあげよう。次にもっと大きな魚を釣れば良いんだ。娘は納得できず、食べたかったと言い続けた。

 0歳でリールを与えた。おもちゃではなく、高価なものだ。1才のときには、器用にリールを巻くことができた。魚釣りには何歳で連れて行って良いのか調べたが、どれも否定的なものだった。せめて小学生からだろう。危なすぎる。親のエゴだ。でもなかには3歳で、ルアーをキャストできる子供もいた。危ないからさせないではなくて、危ないから教えるのだ。自然の驚異を、海の危険を教える。本来動物は、そうやって生きてきたはずだ。はじめて海に連れて行ったときから、娘は狩りの仕方を本能で知っていた。疑似餌をこまかく動かし、魚を誘った。コツンという小さなアタリが分かり、時は大きな魚がかかりラインを何メートルも走らせた。

 4歳になると、キャンプに行く、魚釣りに行くと告げると泣いて、あたしも行きたいとごねるようになった。言いつけはよく守り、危ないことはほとんどしなかった。海の側には寄らない、海の側を歩かない。パパの言うことを聞く。それが出来ないなら海には連れていかないと何回も教えていたからだ。

「パパ眠たくない?大丈夫?パパが疲れちゃうから心配なんだ」

 女の子は赤ん坊のころから大人だ。母親の視点を、赤ん坊のころから持っている。でも同時に子供だ。眠たくなると機嫌を損ね、わがままを言う。なんでもパパのせいにして、当たり散らす。怒らずに全部受け止めてあげると、それを理解している。パパは優しいんだ。パパはあたしのことが大切なんだ。いつも心配してくれて、泣いてたらすぐ来てくれるんだ。パパが大好き。

 異性であるから、その見本でもあるのだろう。大きくなったらパパと結婚すると、本気で思い込んでいる。海に向かうのは3時間もかかる距離に住んでいるから、車の中ではたくさんの話をした。大きくなった時の話。でも君が大きくなったときには、パパはおじいちゃんになって死んでいるんだ。おしゃべり娘が黙ったので、不思議に思ってのぞきこむと、目に涙をいっぱいにためて口をへの字に結んで耐えていた。まだ3歳で、これだけのことを理解し、これだけ愛してくれるんだ。ひどいことを言ったと反省し、できれば永遠に生きたいと思った。永遠に守ってあげたい。でも、もちろんそれは敵わない夢だ。いずれは誰かにたくさなければいけない。

 娘が大人になって誰か良いひとを連れてきたとき、僕は絵にかいたように彼を殴ってしまうかもしれない。でも滝のように溢れ出す可能性を持った涙をためて、そのあとでは彼に頭を下げているかもしれない。どうか、娘を頼みます。永遠に生きれない自分の代わりに娘を守ってくれる人だから。

 でもそれはまだ先の話だ。今は、まだ教えることがたくさんある。今はまだ、僕が彼女の恋人だ。カサゴを数釣れるようになってからは、鯵を釣りたいと毎日言っていた。鯵は難しい。餌ではないから、偶然では釣れない。あたりが来たら、合わせないといけない。君が釣れるのは、まだずっと先だよと教えたけれど、あるときに何匹も釣り上げた。その日は糸をたらせば魚がくいついてきて、4歳の娘でも簡単に鯵を釣り上げることができた。

 鯵が釣れるとすぐに烏賊が釣りたいと言い出した。烏賊は本当に難しい。烏賊はぜったいにまだ釣れない。でも釣りかた知ってるもん。ロッドを持って、上手にしゃくりながらリールを巻く動作をしてみせた。いつの間にか覚えている。よく見て、学ぶことをこの年から知っている。出来ない、ということは本当は何もない。出来ないではなくて、させてないだけだ。危ないから、まだ早いから。そうやって可能性を閉じてしまっている。子供は大人が思っているよりずいぶん、なんでも出来る。

 ある時は車を置いて、フェリーで離島に向かった。キャンピングカートに釣り具や1泊分の着替え、ソロ用のテントなんかを乗せて堤防へ行き、灯りから少し離れたところにテントを張った。灯りの下は虫が落ちてくるからだ。まだ釣りたい。まだ釣りたい。背伸びをして、いつもは20時に寝るのに0時近くまで起きていた。4歳児の限界が来て、抱かれたまま眠った。僕は娘をテントの中に寝かせて、それから外側のカバーだけ外した。中はメッシュになっていて風が通るし、いつでも娘のことを見ることが出来たからだ。

 娘は動物や魚を恐れないタイプだったから、すべての魚が安全はないことも教えた。フグは身体の中に毒を持ってるよ、食べたら死んじゃうよ。オニカサゴはヒレのとげに毒があるよ。何も恐れないけれど、相反して慎重な性格だったから、最初にすることは何でも私に聴いてくれた。地球に生きる上で、語るべきことはいくらでもあった。何かの書籍で読んだが、女の子に必要なのは母親で、父親の役割はほとんど無いらしい。私に言わせるとそれは机上の空論で、女の子を育てたことがない人が書いたのではないかしら。女の子であれ男の子であれ、母親には母親の役割が、父親には父親の役割がちゃんと用意されている。父親が子供に教えるべきことは山ほどあるし、父として叱らなければいけない場面もたくさんある。ありがとうや、ごめんなさいが言えること。なんで謝らなければいけないのか、なんで反省しないければいけないのか、抱っこして散歩に出かけ、気持ちを落ち着かせたあとで、論理だてて説明してあげれなければいけない。どれだけ時間を割いても足りないくらいなのに、役割がないなんて、そんなはずがない。母親の役割を否定するわけではない。母の愛は海よりも深い。でもフナムシをゴキブリだと騒ぎ、2ミリほどの細さのヤスデを見てムカデだと騒ぐ母親が、自然のすばらしさを子供に伝えられるとは思わない。父親は山より大きく、そして強くなければいけない。世界で一番強いのだと、蜂やムカデ、ましてやゴキブリなど1ミリも恐れないのだと、その大きさを背中を持って示さなければいけない。娘を女の子に育てあげてはいけない。男の子のように、強くたくましく、それでいて女の子にように華のある、可憐で美しい女性に育てられるのは、父親にあたえられたシメイなのだ。

 パパ?あたしがパパの釣った魚食べてくれて嬉しい?

 女の子を持ったことのないパパには、発想すら出来ない発言だろう。これが女子で、これが女性だ。中には、それって気を使われて悲しいですねと思われる方もいるかもしれない。でも、そうではない。これが女性固有の愛なのだ。1日中頑張って、豆鯵が2匹しか釣れなかった時に、せめてもの供養に1匹ずつ丁寧に、姿造りにした。豆鯵なのでほんの数切れなのだけれど、刺身を食べたあとで、骨も、メメも食べたい。

 愛用の鋳鉄製フライパンで骨を揚げながら、こんなに幸せなことはないのと思った。豆鯵がたったの2匹。忘れたいような釣果が、愛娘の一言で、忘れられない釣果になる。気を使われて悲しいのではない。その気遣いが、嬉しいのだ。

 骨とメメを完食してくれた娘を抱っこして、僕はありがとうと伝えた。魚さん2匹しか釣れなかったけれど、全部食べてくれて本当に嬉しかった。パパの釣った魚食べれくれてありがとう。今度また、一緒に釣りにいこうね。

 ありがとうと、ごめんなさい。言葉で言うのは簡単だけれど、実際に示してあげるのは難しい。でも本当に心から、ありがとうと伝えることが出来るのは、娘が気持ちを汲むことの出来る子供に育った証だろう。魚さん食べてくれてありがとう。でも2匹しか釣れなくてごめんなさい。でも嬉しかった。愛してるよ。

 物心ついたときに、僕たちの関係が今のままだとは思わないけれど、自己肯定感を持ち、素直に反省出来て、心から感謝できる子供に育ってくれればそれでいい。嫌われることを恐れない。父親の愛も、また魚の古里のように深くて、蒼い。

7.ペルシャバッコヤナギ

 おわりの森の吸血鬼伯爵の館は、館と云うよりはむしろお城と呼んだほうが的確な表現に思える。よく晴れた朝の空に突き刺さるように尖った三本の塔、それにかかる黒い三角の屋根。この城のような館の主は、物語の最後に登場するような別格の存在感を持っているであろうことは誰だって容易に想像できる。

 目を閉じて、また目を開けてみたときに、最初に目を開けていたときと何ら変わらない驚きや、圧倒される感覚。誰だって震えるし、恐れるのが当たり前だ。吸血鬼伯爵の城のような館の前には細い川があって、その岸べりには何人も立ち入らないように柵がほどこされているが、大人ほどの背丈があれば簡単に飛び越えることの出来る高さである。

 小さなオキザリスや、お供をしている黒猫だって、頑張れば乗り越えることは出来るだろう。それよりも彼らには素朴な疑問があった。

「雨は伯爵が降らせているのに、どうしてこの森には雨が降っていないんだろう」
「それよりも見てごらん。朝だ。僕なんて朝なんかずいぶんと見た記憶がないというのに」
「不思議だね」
「あぁ、とっても不思議だ」

 見てごらん、虹だと、オキザリスが叫んだ。吸血鬼伯爵の城のような館を大きくまたぐようにかかった虹の橋。いくつも綺麗に重ねられた色は空にのぼり、やがて雲に寸断されるように途切れている。

「来てよかったね」
「そうだね。スカイフィッシュに感謝しないと。こんな綺麗な虹、人生でもそうそうお目にかかれないよ」

 そうやって猫と人間の子供は、目の前にある恐怖から逃れようとしていた。柵を飛び越えて、川を渡れば館には入ることができる。でも、最初の1歩がどうしても出ない。

「君は猫だからひょいっと飛び越えたら一瞬じゃないか」
「そういうこと言わないでよ。大体これは君の使命だろう。僕は頼まれたからしぶしぶついてきているだけなのにさ」
「そうだったね、ごめん。でもこの川を飛び越えないと何も進まないよね。一体全体、スカイフィッシュはどうして川の手前で僕らをおろしたんだろう」
「スカイフィッシュだってきっと怖かったんだろう。だって見てもごらんよ、こんな館、普通はいくらお金をもらっても絶対に入らないよ」
「そうだね。そもそもお金なんて払ってないし。スカイフィッシュの文句なんか絶対言えないね。ねぇパセリ、パパが言ってたんだけど、川には河童がいるんだって、知ってた?人間や動物の子供が来るのを待ち構えていて、川に入ったところを捕まえて食べるらしい。お尻からね」
「それってマジ?河童って猫も食べるの?」
「もちろん、だって君ってとてもおいしそうだもの」
「そんなの嫌だ。僕まだ結婚もしていないんだよ。ところで河童ってどんなの?」
「身体は緑色なんだ。口は耳まで裂けていて、頭にはお皿が乗ってる」
「どうしてお皿なんか乗ってるんだよ」
「さぁ、でもきっと僕たちを捕まえたあと食べるために使うのかもしれない」
「じゃぁ、もう帰ろうよ。ちゃんと説明すればマリーだって許してくれる」
「でも僕には使命があるんじゃなかった?」
「そうだけれど、でも命より大切な使命なんてあるのかって話」
「そうだね」

 それで猫と人間の子供は引き返そうと思ったけれど、考えてみれば自分たちの足で引き返すことの出来ない距離まで来てしまっていた。やっぱり先に進むしかないと、オキザリスは柵に手をかけて、背伸びして川をのぞいてみた。想像していたよりずっと綺麗な川だ。小魚が何匹も群れをなして泳いでいる。深くはないようだから、飛び込んでみようかとオキザリスは思った。対岸まで一気に走り去れば、きっと河童にだって見つかりっこない。

「ねぇ、パセリ」

 問いかけた瞬間に後ろから肩を叩かれて、オキザリスは思わず腰を抜かした。振り返るとそこに、白髪の美女が居た。顔のほとんどを隠すような白い大きなマスクをしているが、そんな布切れ一枚では到底覆えないような美しさが溢れ出している。緑色のベロアのスーツに、茶色のタッセルローファー。地味だけれどよく似合っている。
「君、誰?」
「ペルシャバッコ・ヤナギと申します。伯爵の館で執事をしております」。
 美女は深く頭を下げ、それから真っ直ぐにオキザリスの瞳を見つめた。ペルシャバッコ・ヤナギの瞳は怖いくらいに透明で、澄んだその世界の奥は底なしの沼のようだった。
「執事をしているんだって?それなら話が早い」とパセリが言った。

 僕たちは伯爵に会いに来たんだ。

「伯爵のお客人でしたか。でもあいにく伯爵は・・・・・・」とペルシャバッコ・ヤナギは言いにくそうに答えた。
「伯爵がどうしたの?」
「あいにく、今はおやすみの時間でして」
「おやすみって、眠ってるってこと?こんなお昼間に?」
「お昼とか夜とかではなくて、伯爵は1度眠りにつかれると100年は目覚めることがありません」
「100年だって?」オキザリスは驚いて尋ねた。
「そんなの、1度眠ったら次に起きるときはおじいちゃんになっているじゃないか」
「いいえ、そんなことはありません。伯爵は吸血鬼ですから、100年の単位で目立って年を取るということはありません」
「そうなんだ」

 答えながら、オキザリスはますます不安になった。やはり一般的な世界の住人ではないのだ。

「ですが、方法はあります」
「方法?」
「はい。伯爵に会うことは可能です。ただ、一度に会える人数は一人だけですが」

 オキザリスとパセリは目を見合わせたけれど、どちらが伯爵に合うのか、すぐ返答することは出来なかった。
「でも、とにかくさ、この川に入らないといけないよね」
「川ですか?」
 ペルシャバッコ・ヤナギは不思議そうに答えた。
「だって見る限り、橋なんてないもの。川に飛び込んで河童につかまらないように駆け抜けるしか方法はないと思うんだ」
「河童がいるんですか?この川に?」
 ペルシャバッコ・ヤナギはさらに不思議そうな顔でオキザリスを見つめた。
「やっぱりいないんだ、河童なんて。だから言ったんだよ僕は。オキザリスは怖がりなんだ」
「だってパパが、川には河童がいるって言うからさ」
「なるほど」
 ペルシャバッコ・ヤナギはすべての謎が解けたように安堵の表情を浮かべた。
「河童なんて迷信です。あれは大人たちが生み出した想像上の生き物ですよ」
「そうなんだ・・・・・でもそれならなんでパパは僕に嘘ついちゃったんだろう」
「それはあなたのことがとっても心配だからです。それに、橋ならちゃんとあります」

 ペルシャバッコ・ヤナギは右の足を1歩前に出し、次に左の足を持ち上げて、右の足に並べた。
「浮いてる」
 オキザリスとパセリは同時に叫んだ。ペルシャバッコ・ヤナギは気にもせずに、さらに右の足を1歩、それから左の足を1歩前に出した。ペルシャバッコ・ヤナギが歩く度、美しい彼女は空に浮かんで言った。
「みなさんも続いてください」。

 そう言って、ペルシャバッコ・ヤナギは空へ登って行った。

「続けったって、僕ら空は歩けないんだよ」

 オキザリスは言ったけれど、パセリは何事もなかったようにペルシャバッコ・ヤナギに続いて空に昇って行った。まるで、あらかじめ用意されていた譜面の音階を上っていくように。

「よくよく見てごらんよ。虹の橋だ」

 ペルシャバッコ・ヤナギが歩くたびに、その空間に虹の橋が現れる。まるで王の帰還を待つ城のように、それは館の棟のひとつに置かれた窓まで続いていた。パセリに続いて、オキザリスも虹の橋を渡った。あんなに怖かった川が、とても遠くで静かに流れていた。

 虹色のステンドグラスの窓を開けて、ペルシャバッコ・ヤナギは館に入った。パセリと、それからしばらく経ってからオキザリスもそれに続いた。館の中は外とは打って変わって夜の闇のように真っ黒だった。ペルシャバッコ・ヤナギの手に持たれた蝋の火だけが、唯一の灯りだった。ペルシャバッコ・ヤナギは慣れた足どりで館の中を進み、やがて1枚の扉の前で立ち止まった。ペルシャバッコ・ヤナギは蝋の火を前に突き出して、扉を照らして見せた。暗がりの中で、その木製の扉は気恥ずかしそうに照らされていた。丸くて黒い取っ手を取って、ペルシャバッコ・ヤナギは手前に引いた。扉の向こうの景気は、たとえようのない色をしていた。まぶしくて、でもどこか悲しい色。光はいくつも重なって、まるでこちらにおいでと誘っているようだった。

「どちらか一人だけです」

 ペルシャバッコ・ヤナギは言った。オキザリスは何も言わず、一度だけパセリを見つめてから扉の中へ足を踏み出した。彼は西の森で最も勇敢な雄鹿の息子だったから、いざというときは勇敢だった。恐れはなくて、それより好奇心が勝っていたのだろう。

「ではいってらっしゃい。伯爵の夢の中へ」

 ペルシャバッコ・ヤナギの潤んだ質感の声が、オキザリスにはすごく遠くで聞こえていた。オキザリスは扉を閉めて、伯爵の夢の中へ入っていた。次第に、自分の存在が誰なのか分からなくなった。深い海の中で揺れている海藻のように、オキザリスはそれに同化していった。深くて、澄んだ、透明の水に溶けるように。

 

8.ピアノ

 僕はピアノが弾ける。母親に言わせると、4歳のころに自分で習いたいと言ったらしいが、4歳の男の子がそんなことを言うのかは疑問に思っている。とにかく4歳のころからピアノを習い始めたが、ピアノの練習はとても嫌だった。ほとんどの子供にとって、ピアノの練習は地道でつまらない。ピアノが弾けて良かったと思えるようになったのは、ずいぶん大人になってからだ。

 独身のころは毎日ピアノを弾いていた。嫌なこともピアノを弾いていると忘れられた。目を閉じて音の中に溶け込んでいく、その曲の中に入り込んで自分を溶かしてしまう感覚は、ピアノが弾ける人にしか分からないだろう。夢を見ている感覚に似ている。

 娘が4歳になったころ、僕は娘にピアノを教えることにした。親が自分の子供にピアノを教えるのは難しいというのが一般論だが、僕はそうは思わない。指の形が壊れてしまうとか、子供は親の言うことは聞かないとか、親は子供を怒ってしまうというのが主な理由だが、ピアノは心で弾くものだし、後者は信頼関係の問題だ。

 僕は何も誇れるものがないが、唯一、娘のことは誇りに思っている。彼女はとても勉強熱心で、向上心がある。プライドは高いが、そのコントロール方法も熟知している。だって4年も彼女の親をしているのだ。機嫌を損ねたときの対処方法や、やる気にさせる方法も知っている。何よりも、彼女のことを本当に大切に思っている。大切に思っていれば、多少機嫌を損ねたくらいは大きな気持ちで受け止めてあげることが出来る。

 ピアノの教育は素人だが、ピアノの成り立ちは考えてみれば分かる。ひとつは音符に記号の記載された楽譜の読み方。鍵盤の位置。それを適格に弾くことが出来るように右手と左手の使い方を教える。それからリズム。4歳の真新しい頭の中に教えるときは、それらを切り離して教えてあげる必要がある。右手と左手の指のこと、楽譜に書かれた一つ一つの音符と記号。一つ音符を覚えたら、鍵盤を探す。手を置いて、それを弾いてみる。それとは別に、リズムの練習をする。4分音符、2分音符、4分休符、8分音符、8分休符、付点2分音符、全音符。気の遠くなるような作業だが、小説を1から書きあげるようなものだ。一つずつ覚えて行く。成長期の子供の能力は偉大で、その時は分かっていないようでも、時間をおいて確認すると理解していることがある。

 まだ4歳なのだ。出来なくて当たり前。気長に、分からなければさりげなく答えを導いてあげて、出来たらちゃんと褒めてあげる。親が出来ないというのはその親の問題で、親だから出来ないということではない。もし短気な大人なら、仮にピアノの先生だって子供に教えてあげることはできない。自分が出来ることと、教えることは別の問題だから。

 幸い娘はどういったわけか勉強熱心で、僕が言わなくてもピアノの練習をしたがる。朝目覚めて、パパ、ピアノの練習するんじゃなかった?あぁ、そうだったね。音楽のドリルを開くと、熱心にそれを1ページずつこなしていく。ちゃんと出来たらシールを張って、まるでノーベル賞を受賞したときのように思い切り褒める。ちゃんと出来なくても怒らない。シールは張らずに、また別の日に同じ作業をする。機嫌が悪くて短気を起こしたら、頭をなぜて本を閉じる。別にピアノの練習なんかしなくったって、死んでしまうわけではない。

 ある時は娘が白い紙に不規則な5線を引いて、ト音記号と音符を書いて持ってきた。パパ、このピアノ弾く。これはレでしょ?見てみるとちゃんとレの位置に黒い丸が書かれてあって、僕はとても嬉しくなった。じゃぁ、この曲を弾いてようね。レからはじまる曲。次はドだね。次のはミだ。ピアノは何のために練習するんだろう。ピアニストになるためだったら、そんな練習はつまらないだろう。ピアニストは偉大だが、娘にはそれはのぞまない。ピアノは、それを楽しく弾くために練習するのだ。上手に弾けなくたって、指の形が少しくらい違っていたってそんなのは構わない。ピアノだけではなくて、勉強でも同じだ。特別に難しい問題がとけなくても良い。そんなことより、毎日楽しく生きてほしい。魚釣りや、料理が上手に出来るほうがずっと偉大だ。人に優しく出来て、日々にちゃんと幸せを感じることの方が大切だ。

 僕はピアノの練習が嫌いだったけれど、今はピアノが弾けることに感謝している。娘にピアノを教えてあげることの出来るパパは、それほどたくさんはいないはずだ。いつかは連弾して、一緒に夢の世界を見ることができる。

 娘は今、1オクターブ上のドの位置に黒い丸を塗っている。同じドだけれど、こっちのほうが音が高いんだよ。あたし分かってたよ。分かってたよ、言ったよ。ママと同じものの言い方に少し笑ってしまう。分かってなかっただろう、言ってなかったよね、とは言わない。分かってたんだね。すごいねと褒める。

 結婚してから10年間。ピアノに触れなかったので上手には弾けなくなった。ピアノは触らないと目に見えて衰えていく。結婚してからは幸せだったし、子供が出来てからは忙しかったから、ピアノを弾きたいと思うことがなかった。ある意味では、芸術家は孤独ではなければならないのだろう。独身時代はそれを癒すためにピアノを弾いていた。娘が4歳になって、少し落ち着いた部分もある。昔習っていたときの教本を開いて、最初の曲を弾いてみる。バッハ インベンション。15 Invention a 2 Vois 1番。右手は問題ないが、左手がついていかない。うまく弾けないところには先生の走り書きがあって、思わず微笑んでしまう。僕は練習しなかったから、先生は大変だったろう。毎回同じところを指摘して、ちゃんと出来るようになるまでマルはくれなかった。それでも今の娘から考えるとずっとたくさんの音符を読めるし、ずっと難しい曲を弾くことができる。

 ピアノのメリットは、ピアノを弾けるようになることだけではなくて、指先の器用さや、記憶力の向上にもつながっていると思う。現にこうやってパソコンのキーボードを叩いている時だって、言葉でしゃべるより早いくらいのスピードでそれを打つことが出来るし、ある意味ではそのおかげで頭で考える前に言葉が出てくることにつながっている。指が勝手に物語を綴っていくのは、きっとピアノを弾いていたからだろう。ピアノを弾くように、物語が語られていく。だからと言ってはっきり、頭が良くなるわけではない。あくまで、それだけのことだ。

 娘は妻の生き写しのように見えることがある。環境ではなくて、生まれ持った性格のことだ。猫のように自由で、気が強くて、わがまま。あまりに不条理だから、飼いならせるようなレベルの人間ではない。妻と娘が喧嘩しているときは、同じ年の子が言い争っているようにすら思える。でも同時に、具体的に説明することは難しいけれど、僕にもよく似ている。良いところを書くなら、感覚的なところで優れている。まるで理想の女性だ。男の子を持つパパにそんなことを言ったら、彼は何も言い返せなかった。正確には、言い返す必要のないほどくだらないことを言ってしまったのかもしれない。

 ピアノには強弱の記号がある。バッハの時代には現代のようなピアノはなかったようで、彼はクラビコードという楽器のために曲を書いた。金属片で弦を押さえることによって音を鳴らすこの楽器は、音の弱い有鍵楽器だったが、それでも強弱は幾分つけることができたらしい。それでも現在のピアノにくらべると大きな差があるため、バッハの原本には強弱記号がほとんど書かれていないらしい。

 バッハは何を思い綴ったのか、研究者たちが考えながらバッハらしい音楽になるよう、編さんしたのが今のバッハの楽譜だ。本やピアノの譜面には、彼らがちゃんと生きている。今に生きる僕らはそれに思いを馳せ、物語や夢の世界に立ち入ることが出来るのだ。いつか娘がバッハを弾けるようになったら、そんなことを語りたい。飼いならせなくて良い。クレッシェンドからのフォルテも、君の魅力だから。

9.オステオスペルマム

 眠ることが、私の仕事だった。一度眠ると、ずいぶん長いあいだ目が覚めることはない。本当に長い眠りだから、たくさんの夢も見る。それは、物語のなかの1枚の挿絵のように断片的なものであったり、まったく逆に、起きているときに目にするものと変わらなく具体的なものであったりする。もっとも、夢であるから目覚めと同じくしてほとんどの記憶をなくしてしまうのだけれど。
 そういえば、いつのころだろうか。眠りから覚めた日は、なぜかいつも夜で、なぜか雨が降るようになった。なぜだ?たずねるたびに私の執事は言った。
「空の神の気まぐれか、まったくのたまたまでございましょう」
 では私はどれくら眠っていたのだ。私がたずねると執事は、「時間は魔女が奪ってしまいました」と言った。魔女が時間を奪ったせいで、私が眠っていたトキは、長いのか短いのかさえ分からなくなってしまったようだ。

 とはいえ、私は生涯のほとんどを眠ってすごしているから、起きていることの多くをあまり知らない。
むしろ、夢こそ私の現実である。私が望めば、何だって手に入るから、夢の時間は居心地が良い。私くらい眠ることが上手になると、割合、夢のなかの行動は起きているときと同じように自分の意思で選択することができるようになる。ただ、行動ができるから、望むものが手に入るわけではない。それは起きているときも、夢のなかであってもあまり変わらない。

 私には恋人がいたが、あるとき彼女は離れていった。いたしかたのないことだと思う。生涯のほとんどを眠ってすごす私に、愛想をつかしたのであろう。愛とは夢のように脆いものだ。私は彼女のことを本当に愛していたが、彼女は私のことを、本当には愛してなかった。それだけのことだ。

 夢のなかで、ときどき彼女に出会う。だから私は、今でも彼女と恋人である関係を保っている。私は夢のなかで彼女と道を歩くことができるし、一緒に星空を眺めることも、彼女を抱くこともできる。

 前言を撤回する。夢は、現実ではない。所詮、彼女は私の意識が作り出した幻に過ぎない。愛は、永遠ではない。愛は花のように散る。

 実際のところ私は、彼女のことをいまだ忘れることができずにいる。彼女のやわらかい物腰や、離れ際に見せる寂しそうな表情といった細かいところまでも、鮮明に記憶している。きっと彼女を彩るひとつひとつの細胞までも、私は愛していた。

 彼女に初めて出会ったのは、森の外れにあるバジルの塔のダンスフロアだった。あるとても寒い夜、バシリコス男爵の主催するダンスパーティに私は参加していた。私はダンスがあまり得意なほうではなかったから、はじめのころはフロアの片隅でパーティの終わりをじっと待っていた。ただ、手持ち無沙汰というわけではなかった。

 私はワイングラスを片手にフロアの人々を観察していた。観察は私の一番の趣味だ。男爵の第一夫人であるエルフのアイリス。彼女は痩せているが恐るべき大食漢である。見かけたときにはいつも、何かを口にしている。はじめに見かけたときはカルボナーラのパスタ。フェットチーネの麺で作られていた。次に見たときはペスカトーレのピッツァ。チョコレート色のケーキ。紅茶にワイン。とにかくあらゆるメニューを次から次に口にしている。憂鬱そうな表情で窓辺にたたずんでいるのはプレジオサ。 彼女は小人である。その目線の先には欠けた月。ときどきため息をついている。失恋でもしたのだろうか。どこか大人びた雰囲気とは裏腹につま先立ちで背伸びした姿が可愛らしい。
 次々と相手を変え踊り続けているのはユリオプスデイジー。彼は背が高く顔立ちがよいので踊る相手には困ることがなさそうであるが、実際は孤独な狼男であることを私は知っている。見ているあいだにもユリオプスデイジーは五人の女性の相手をして、ついにはなぜか私の目前に現れた。私たちはしばらくにらみ合うようにたっていたが、ふと、彼は張り詰めた緊張の糸を解くように私に微笑みかけて言った。

「あの女を見たか。誰も落とせない」

 それが、私が彼女を初めて目にした瞬間だった。彼女は両手ほどもある大きな林檎を持って、私と同じようにフロアの片隅で踊る人々を眺めていた。彼女の足元には小さな黒い猫がいた。心臓にある何かのスイッチが押された音がした。一目惚れだった。
 恋に落ちるということを、あまり上手に表現することはできない。あのときの感情を私は、自分自身ですら理解していないからだ。朱色の赤い髪に魅力を感じたのだろうか。それとも長い前髪に隠された淋しげな瞳に心を奪われたのだろうか。紫墨色の布に覆われた彼女に保守性を感じたのか、それとも人々を遠くから見る、孤立した態度に共感したのだろうか。いいや、きっとそれだけではない。視覚や雰囲気といった要因から得る感情にもっといくつもの変数を重ねて、私は彼女に見とれていた。

「きっと魔女だ」とユリオプスデイジーは言った。
「しかし美しい」と私は答えた。

 背の高いユリオプスデイジーは私を見下ろしながら「見てろ」と捨てるようにつぶやき、彼女のもとへ足音を鳴らしながら歩いていった。ユリオプスデイジーが彼女に並ぶと、彼女の姿はさらに際立って小さく見えた。ユリオプスデイジーが彼女に何か話しかけると、彼女は一度だけユリオプスデイジーを見て、すぐに興味が無さそうにまた踊る人々へ目線を戻した。諦めきれないユリオプスデイジーは何度も彼女へ話しかけていたが、ついに彼はきびすを返して私のもとへ帰ってきた。

「チェックメイト、とはいかなかったようだな」と私はユリオプスデイジーに言った。「ふん」ユリオプスデイジーは悔しそうに言って、私をにらんだ。そして、「君も男なら、つったってないで誘ってみろよ」と言った。少しだけ迷ったが、「そうだな」と私は答えた。

 断っておくが、私が女性に自分から話しかけたのは、あのときが最初で最後である。私は臆病な性格だからね。普段は道端の草にさえ、話しかけたりはしない。何より私は変化を好まない。私はできるだけ静かな生活を送りたいと思っているし、自分以外の生き物と、あまり深くかかわりたいと思うことがない。
ただ、それ以上に彼女は魅力的だった。

 私はチェスの駒にたとえるなら歩兵ように、ゆっくりと彼女のもとへ近づいた。おそるおそる歩み寄り、ようやくしぼりだした勇気をそっと言葉にした。

「もしあなたがよければ、私と踊っていだたけませんか」

 彼女はユリオプスデイジーのときと同じように私を一瞥して、すぐに目線を変えた。仕方がない。はじめからわかりきっていたことだ。彼女がクィーンなら、私はどうみてもポーンだった。話しかけることができただけでも、私にしては上出来だった。そうやって諦めて彼女に背を向けたとき、彼女は言った。

「いいわ」

 100万年分の奇跡を、集約した瞬間だった。

 遠くで皮肉な笑みを浮かべていたユリオプスデイジーに、私はウィンクをしてみせた。彼は一瞬、驚いた表情になって、次には信じられないと言った表情に変わり、けれどすぐに眉間に皺を寄せた。私は彼女の小さな手をとって、ダンスフロアの真ん中へエスコートした。静かなワルツが流れていた。繰り返す旋律の、何度目かのはじまりに合わせて、私たちは1歩目を踏み出した。私たちのダンスはぎこちのないものだった。踊りだしてすぐに、私の左足が彼女の紫墨色のドレスの長い裾を踏んで、私たちはもつれあうように転倒した。私は左腕で彼女を守るように倒れていた。彼女は私のなかで小さくなっていた。そのまま右腕を伸ばせば、彼女を抱きしめることができた。衝動に駆られて右腕を彼女に近づけたとき、彼女と目が合った。

 不思議と、人目は気にならなかった。私たちはしばらく見詰め合っていた。

 パーティを抜け出して、私と彼女はバジルの塔から北へ2キロほど離れたところにある湖へ向かった。大きな湖で、周辺にはたくさんの村があったが、幸いにも、私たちの訪れた場所には誰もいなかった。
 木々の色をとかしこんだ、緑色の湖だ。水面には月が浮かんでいた。水辺のぎりぎりまで押し寄せる木々に守られるように、私たちはそこに腰をかけて夜が明けるまで語り合った。家族のこと。仕事のこと。もっと小さなこと。たとえば、昨日食べた食事のこと。たとえば、彼女は煙草がやめられないこと。夢中で話している彼女の横顔に、私は見とれていた。彼女の膝元で丸くなっている小さな黒い猫は、眠ったふりをしながらときどき心
配そうに片目をあけて私を見ていた。

「あなたは血の匂いがするわ」

 とつぜん、彼女はそう言った。私は少しためらったが、彼女にはすべてを話そうと思った。それでもし、彼女が離れてゆくとして、それは仕方のないことだと思ったからだ。

「私はうまれついての吸血鬼だ。私は、私が生きるためにたくさんの血を必要とする。愚かしい生き物だろう。生涯のほとんどを眠りにささげ、起きている数日間は血をすする。愚かしい生き物だ」
 
 彼女は表情ひとつ変えなかった。代わりに黒猫の毛が逆立っていた。

「運命は変えられないわ」と彼女は言った。「私は魔女よ。まだ見習いだけれど」
「吸血鬼よりはよほど良い」と私は言った。「そうでもないわ」と彼女は答えた。

「魔女は、いつかすべてを失うの。年齢も、時間も、なにもかも。だから、はじめから何も手にしてはいけない。たとえ、とても小さな恋であっても」

 湖は、いつまでも静かだった。風景を四角に切り取って、一枚の絵にしたところで何も変わることはなかっただろう。木々も、風も、水も、ただ静かにそこに居た。世界には私と彼女と、小さな黒猫だけがいた。
月だけが、私たちを見ていた。私は彼女にキスをした。

 眠ることが、私の仕事だった。一度眠ると、ずいぶん長いあいだ目が覚めることはない。私は長いあいだ眠り、ときどき目を覚ました。起きている数日間のあいだ、私は彼女にあった。彼女はいつも、変わらずに居てくれた。あるときまでは。

 ある夜、私は目を覚ました。もちろん、起きてすぐ執事に尋ねた。
「マリーはどこにいる」
 執事は私の目を見つめ、「マリーさまは」と言ったっきり口を開かなかった。私はあわてて彼女を探した。不死であるはずの彼女について、最悪のことを想定した。
 私は館を走り回り、彼女を探した。庭園も、屋根裏も、物置も。彼女はどこにもいなかった。
 私は執事のもとに歩み寄り、彼の襟もとをつかんだ。
「私のマリーはどこにいるんだ。言え。さもなくばこのままおまえを絞め殺すぞ」
 強い口調で、私は執事にせまった。
「マリーさまは、帰りません」小さな声で執事は言った。
「マリーさまは、はじまりの森の大魔女になったのです」

 私は執事を離し、その場に崩れこんだ。そして、いつか彼女が言っていたことを思い出した。魔女は、いつかすべてを失うの。年齢も、時間も、なにもかも。そうだ。彼女は私を捨てて、それを選んだのだ。
 私は彷徨うように窓辺まで歩き、空を見上げた。雨が降っていた。それからのことを、あまり覚えてはいない。ただ、起きていた数日のあいだ、朝は一度も来ることがなかった。

 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。私はこれまでと変わらず、長いあいだ眠り、少しのあいだ起きた。起きている短い時間に、私は生き物の血をすすった。もはや私は、自分が何のために生きているのか、わからなくなった。

 私は棺桶に入り、目を閉じた。再び100年の眠りにつくのだ。眠っているときだけが唯一、幸せだった。すべてが夢の中の出来事だと、自分に言い聞かせることが出来るからだ。しかしどうして、この瞬間ですら私に近寄るものがいるのか。私は意識の中で、この小さな人間の存在について考えている。私は穏やかな性格だが、唯一、眠りを妨げるものだげは許すことができない。ペルシャバッコは何をしているんだ。どうしてこの小さな人間が、私の意識の中に来ることを許したのだ。

 激しい怒りの中で、私はこの小さな人間をにらみつけた。彼はまるで哀れなものを見るように私を見つめ、それから扉を開けて、私の意識から離れて行った。よかった。これでまた、私は一人だ。

 木製の扉が開き、オキザリスは伯爵の夢の中から戻ってきた。扉を閉めてすぐに、彼は言った。「いますぐに、伯爵を起こさなくっちゃ。いま、すぐにだよ」

10.竹富島

 葉祥明の絵のような水色の海に、真っ白い桟橋が真っすぐに浮かんでいる。僕たちはそんな島で出会った。最初にその人を見たのは宿の食堂だった。食堂と言っても広い座敷に田舎の宴会で使うような長いテーブルが並べられただけの部屋だ。最初に入った僕と友人の次に、その人が入ってきた。とても楽しそうな顔をしていたことを覚えている。

 食堂で会話したことは覚えていない。順に回ってきた魚を、その人が僕に渡してくれたことだけを覚えている。見たことのない白い魚で、沖縄の味がした。

 食事が終わって、宿の庭でゆんたくが開かれた。宿の客が自己紹介なんかを始めた。その人は10年続けた仕事を切りがよいので辞めて、沖縄へ一人旅に来たのだと言っていた。鳥のように自由な人だと思った。石垣の離島をめぐり、最後にこの島に来たらしい。昼間、迷子になりどこにも辿り着けなかったという話を聞いて、僕と友人はその人を西桟橋へ連れて行った。宿から歩いてすぐの距離に、その桟橋はあった。

 桟橋には夕日を見に来た観光客が集まっていて、みな思い思いの場所に座って海を眺めていた。僕とその人は桟橋のちょうど真ん中付近に体育座りで並んで、いろんな話をした。友人はなぜか桟橋から離れた浜辺で、何かを探していた。あとから聞いたら、気を利かせてタコを探していたらしい。

 夕日が落ちて、真っ暗になって、桟橋には誰もいなくなった。その日はオリオン座流星群が訪れる日で、ただでさえ無数の星が降り注ぐ沖縄の空に、考えられない数の無数の光の矢が飛び交っていた。どんな優秀な絵本作家でも、あの日の空を画くことは出来ないだろう。僕はいつまでも空を眺めていて、隣ではその人が宿から勝手に持ち出した毛布にくるまって眠っていた。

 あくる日も、僕たちは一緒に遊んだ。ビーチでは写真を撮ったり、猫と遊んだり、足首まで海につかってはしゃいだりした。夕方はまた桟橋に行って、釣り人が透明な烏賊を釣り上げたのを見た。その烏賊は宿の夕食に提供されて、真っ黒な墨の味噌汁の中で、一切れずつ入って出てきた。あくる日、僕たちは分かれた。一緒に遊んだ数日が嘘のように、とてもあっさりとした別れだった。

 旅が終わって、僕は兵庫に帰った。神戸空港を降りてから見た三ノ宮の夜景が、とても悲しかった。人はなんのために、これほど発展する必要があったのだろう。そんな感情も、日々の生活では直ぐに薄れていくものだ。答えなんて簡単で、生きるために発展したのだ。何も間違ってはいない。ただ、悲しいだけだ。深く考える必要はない。僕もまた生きるために、繰り返す日常を淡々と過ごした。

 ある日、その人がやってきた。僕は京都を案内して、その人は帰っていった。しばらくして、僕が遊びに行った。飛行機に乗って、鹿児島空港に降りた。その時から月に一度、鹿児島へ遊びにいくようになった。指宿では砂風呂に入り、桜島では噴火を観た。そんなことを1年続けたら観るところもなくなって、僕たちは結婚した。

 それから4年後に、君が生まれたんだ。

11.ペルシャバッコヤナギ

 ペルシャバッコの案内で、オキザリスとアーティーチョークは鉄の扉を抜け、冷たくて静かな大理石の廊下を歩いた。響き渡るツカツカという足音に合わせるように、ペルシャバッコは語り始めた。

 伯爵が最愛のひとを失ったことを知った夜、雨が降りました。涙を落とすのことない伯爵の代わりに、空が泣いていたのでしょう。恋の痛みは、それほどまでに深いものでしょうか。私は72歳の春に執事の学校を卒業し、それから伯爵の執事として生きてきました。恋をしたことはありません。ですから、その痛みも知りません。

 端的に申しますと、もともと体はひとつなのですから、心もひとつ以上は必要 としないはずです。ですが伯爵の悲しみにくれた寝顔を見ておりますと、私の考えは揺るぎます。もう、必要としてしまっているのではないかと思うのです。伯爵は孤高なお方ですから、相談するものはおりません。ですから、頼りはないですが、私がその役目を果たすこともあります。

「どうして出会ったのか?」
 
 ある時、伯爵はそのような質問をされました。はじめから出会わなければよかったと。何も知らなければ、失うこともなかったのにと。胸を切り裂くような痛みを知ることもなかったのにと。私は何も申し上げることができませんでしたし、それが私の答えでした。硬直している私に、伯爵はすまなかったとおっしゃいました。伯爵は賢いお方ですから、感情を自ら整理することができます。

「失礼ですが」

 私は伯爵にお尋ねしました。失礼ですが、叶わない恋と知っていたのならば、はじめから手にしませんでしたか。伯爵はしばらく考えて、ひとつの答えを見つけられました。
「それでも、私は恋をした」。それでも私は、彼女を愛しただろうと続けておっしゃいました。私は余生をかけて、このひとにお仕えしようと思いました。私はできのよい執事ではありませんが、ほかのどの執事より伯爵の心を汲み取ることができます。

 恋をしらないのに?と疑問を抱かれることでしょう。それでも、です。

 マリーさまが屋敷を出られるとき、私を呼びつけておっしゃいました。
「ヤナギ」。ヤナギというのは私のラストネームです。
「ヤナギ、私は屋敷をでます。私が消えたことをしれば、伯爵は悲しみにくれることでしょう」
 ですからヤナギにはすべてをお話しておきます。ほんとうのところ、私は昨日まで、人間でした。

 私は驚きました。この森に、人間はいないからです。特別なのだとマリーさまはおっしゃいました。大魔女になるものは、生まれついての魔女ではなく、人間のなかから選ばれるのだと。続けておっしゃいました。
 明日、大魔女になります。大魔女になるということは、すべてを失うということです。年齢も、体も、命も、それから、あの方も失うということです。私は決断しました。

 私は、マリーさまが泣いていることに気づきました。私はハンカチーフを差し出しました。ありがとうとマリーさまはおっしゃいました。体や命を失うことが悲しいのではありません。幼いころから、覚悟してきたこ
とですから。それよりも悲しいことは、あの方を失うことです。

 どうして私が。

 そう言って、マリーさまは崩れました。強いと思っていた女性の、本当の部分を見たのかもしれません。マリーさまの涙が枯れるまで、私は付き添っていました。空に月がありました。星のたくさん降る夜でした。
 マリーさまは頭を深く垂れ、私におっしゃいました。
「伯爵を頼みます。あの方にはもう、あなたしかいないのですから」

 涙は消えていました。目に宿る決意を見て、私もお答えしました。私の命にかけて、伯爵をお守りいたします。ありがとうとマリーさまはおっしゃいました。それが、マリーさまが人間であった最後の夜でした。 
 私は、代々が執事の家系です。父も、その父もまた執事として生きました。時には辛いこともあるだろうと、父が私に言ったことを覚えています。執事は日陰の仕事です。主役になることはありません。

 それでも、耐えなさいと父は言いました。

 歯を食いしばり、時にはこぶしを握り締めて我慢しなさいと。

 今の私にとって耐え難いことは、伯爵の悲しみです。私は耐えなければなりません。伯爵が目覚める朝には、いつもかわらない笑顔で、せめて少しでも悲しみが薄らぎますようにしなければなりません。

 どのようなことがあろうと、私は彼の味方です。

 雨が降っています。伯爵は眠っておられます。私は傘を差し、庭の花を見てまわります。マリーさまは花を育てるのがお好きな方でした。マリーさまは世界中の花を庭に植えました。陽のない世界で、ほとんどの花は枯れてしまいました。種を作り、次の花を咲かせることもありません。

 出会わなければよかったのかと、あるとき伯爵はおっしゃいました。出会わなければ、失うことも、胸を痛めることもなかった。愛することを知らなければ、失う痛みはないのだと。

 私は伯爵の眠るお顔を見ながら、考えることがあります。生き物は、どうして生まれるのか。幸せなことよりは、悲しいことのほうが多いはずです。死の悲しみは、生の喜びを覆いつくします。

 失うことは簡単です。得ることよりもずっと容易なはずです。それでもどうして、生まれてくるのだろうか。枯れた花を見ながら、私は考えます。

 生まれながらにして執事になることを決められていた私には、生きることに対する執着はあまりありません。
私にとっての生は、ただ、消費することです。いつか死ぬまでの間、おなじことを繰り返しながら終わりのときを待ちます。

 父は、私に言いました。与えられた役割を全うしなさいと。もちろん、それが執事の仕事です。異論はありません。私は伯爵に仕え、命の続く限り、その役割を全うする覚悟があります。それが仕事ですから、それ以上のことを考えたことはありません。つまり、私自身の幸せについて。

 言い換えれば、私の幸せは、伯爵が幸せであることです。そう考えるならば、私は執事として失格です。マリーさまが私に宣言されたとき、私は止めることができませんでした。頭を下げても、命を投げすててでも、どうか伯爵のそばにいてほしいと伝えるべきでした。なぜ、その一言が言えなかったのか、その答えに気付いていました。私は、私もまた、私は・・・・・・・。伯爵の悲しみは、私の想像を凌駕していました。これほどまでに止むことのない雨を、涙を、いったい誰が持ち合わせるでしょう。

 私は罪を犯しました。それでも私は執事として、伯爵を守りぬかなければなりません。マリーさまが大魔女になられることは、決められていました。私が生まれながらにして執事であることと同じように。

 マリーさまは役割があり、仕方のないことだったのです。すべてのことは定められています。私が伯爵にお仕えすることも、伯爵がマリーさまに出会い、恋に落ちたことも、マリーさまが伯爵のもとを離れることもすべて時の定めでございましょう。

 変わらないものはありません。いつのときも、時間は得るものを掴み、失うものを放します。ですが、もうずっと、花は枯れたままです。雨は止みません。時は刻むことを忘れました。

 夜空に輝く美しい月を見ながら、生きていることに少しの喜びを見つけることもありません。きっと、これが答えです。生は、悲しいだけのものです。伯爵の悲しみを癒すことが、私にできるはずはありません。

 あまりに深いのです。陽が昇ることを忘れるほどに、夜の闇が世界を深く支配します。

 長い手紙を繰りかえし読み返しているような気分です。その手紙の終わりには、必ず絶望的な言葉が並べてあります。続きを読むこともためらうような、絶望的な言葉です。私は後悔します。それでもまた、はじめから読み返さなければいけないのです。永遠の線が引かれています。他者と繋がり続けることが困難であることとは別に、その線は簡単に引かれています。生は孤独です。耐え難いほどに。それでも私たちは生まれ、その線のうえを歩きます。答えはありません。それも時の定めでございましょう。

 伯爵が眠り続けるあいだ、私は考え続けます。答えのない式を解き続けるのです。そして伯爵が目覚めるときに、私は変わらない笑顔で生の続きを知らせます。あとどれくらいか、それは途方も無く続くことを。
 もし雨の向こうにまだ月があるのなら聞いてみたいものです。伯爵はどうして、マリーさまに出会ったのか。何も知らないことのほうが、ほんとうは幸せだったのかもしれません。ひとときの幸せならば、はじめから手にしなければよかったのではないか。そうすれば伯爵の悲しみに沈む顔を見ることはなかったのです。空が泣くこともなかったのです。美味しいコーヒーを淹れて、微笑む伯爵の顔を見ながら、私も幸せに過ごすことができたのです。私の話はあと少しで終わりです。私の告白も、あと少しで終わります。私は吸血鬼として生まれました。身分は違えど、伯爵と同じ一族の生まれです。私が女性として生まれたことを、父は悲しんだそうです。ですが、私もまた父と同じ仕事を選びました。申し上げましたように、それが私の使命だからです。

 私は、伯爵を愛しています。初めて伯爵にお会いしたときからずっと。外見や中身といった、浅い恋ではありません。伯爵のすべてに。彼をつかさどる細胞のすべてを。恋に落ちたことがないなんて、つよがりを申し上げました。恋もしましたし、愛してもいます。

 でも私は、この恋を忘れることができます。伯爵が幸せになれるのなら。叶うならばもう一度、伯爵の側にマリーさまが戻られる日を待ち望みます。彼の、あの方の笑顔だけが私の喜びです。

 私の話はこれで終わります。長いあいだお付き合いいただきましてありがとうございました。そう言って、ペルシャバッコヤナギは足を止めた。彼女の左手に持った楼台の灯りが照らした先に、棺桶があった。

「もし、伯爵を起こされるのであれば、私は止めません。これは特別なことです。でも、あなたがたには何か、感じるのです。きっと伯爵にとって何か、とても素晴らしいことをもたらしてくれるような、何か。ただ一言申し上げておきますが、伯爵は低血圧ですから、あなたがたの命の保証はありません」

 ペルシャバッコヤナギは束ねられた鍵の一つを器用に外して、オキザリスに手渡した。ペルシャバッコヤナギは来た道を戻り、巻き角の少年と黒猫と棺桶だけがそこに残った。

12.一人っ子

 多分3歳になった年の冬だったと思う。鹿児島の実家から熊本へ帰る高速の途中で、私も赤ちゃんが欲しいと娘が言った。幼稚園の友達の名前を次々にあげ、みんな妹持ってるもん、私も妹欲しい。突然のことに僕たちは沈黙して、特別に何か上手な言葉で答えてあげることができなかった。とっさの返答で、君にはメルちゃんもポッポちゃんも居るだろうと教えたけれど、だってメルちゃんもポッポちゃんもしゃべらないもんと娘は答えた。祖母が買ってくれたメルちゃんやポッポちゃんは毎日布団をかけてあげたり、どこに行くにも一緒だったから
妹みたいな存在だろうと思っていたけれど、ままごとと現実の区別はついていたようだ。

 僕には弟が二人居たから、正直一人っ子の気持ちはわからない。

 たぶん周りの友達が弟や妹、あるいは兄や姉と遊ぶ姿を見て、寂しいと感じることがあるのだろう。鹿児島から帰ってくる途中だったから、従妹の兄弟を見て、うらやましく思ったのかもしれない。もしかすると単純に、女の子特有の母性本能から赤ちゃんを育てたいという気持ちだったのかもしれない。

 僕は家族3人での暮らしに十分満足していたし、特別に疑問も感じなかった。何より娘の育児は本当に大変だったから、これが2人になるなんてことは考えられなかった。子供は一人で良い。手をかけて、時間を捧げて、この子の人生に責任を持って生きようと決めていた。だから娘の突然の質問には答えてあげることができなかった。

 帰ってからネットで、一人っ子のメリットとデメリットについて検索したら、たくさんの書き込みがあった。一人っ子のネガティブなイメージ、わがままや環境に適当できないという固定概念については、ほとんど否定されていた。育ててみて思うが、兄弟姉妹の影響よりは、持って生まれた性格のほうが大きいだろうと思う。環境が作る性格でいうのならば、一人っこは十分なエネルギーをかけて丁寧に育ててあげることができるし、十分な教育や躾や愛情を与えてあげることもできるから、むしろそれとは反対のはずだ。

 ただ、それは親からの目線で、子供の目線からはやはり寂しいのだろう。娘の好きなアナと雪の女王も、隣のトトロだって、姉妹愛が描かれている。感受性の強い娘だから、何も感じてないことはないだろう。でも、逆に兄弟がたくさんいれば本当に幸せなんだろうか。世の中にはアニメのように仲の良い兄弟姉妹もいるが、反して憎しみあう兄弟姉妹も多い。遺産相続でもめることもざらにある。

 そんなことをまだ3歳の娘に説明できるはずもなく、それに、これは寂しいことについての回答ではない。

 今はまだ、幼い彼女が満足に思える回答をしてあげることはできないだろう。ただ、彼女は鳥のように自由だ。公園で初めてあったお友達にだって、自分から話しかけてあげることができる。人間は誰だって孤独だ。たとえ兄弟姉妹がいても、たとえ双子だったとして、彼らが自分と同じ人間であることはあり得ない。全く同じ経験や、同じ知識、同じ価値観を持つ人間はいない。だから僕たちは人に対して興味を持つことができるし、つながりを求めることができる。孤独だから自由なのだ。広い空をどこまでも飛べる羽を持つことが出来るのだ。

 今、4才になった娘に親である僕ができることは、これまでと同じようにただ一心に愛情を注いであげることだ。残念ながら人間は死ぬ。それは50年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。一人っこだから、親の死の悲しみを分かち合える人はいない。それでも十分に愛されたのだと、幸せな人生なんだと思ってくれるように、心の豊かな子供に育てよう。

 今日も娘はリビングでままごとをしている。家の中に家を作り、玄関やキッチンの間取りを決める。小さなテーブルに二つの椅子を置いて、メルちゃんとぽっぽちゃんを座らせる。料理を運び、食べさせたら、抱っこして寝かせる。ある程度時間が経ったら小さな専用の布団において、眠らせる。はぁ、大変とため息をついて、玄関と決めた場所に行き、紙で作った靴を履いて、どこかへ出かけていく。トイレとお風呂の更衣室をぐるっとまわって戻ってくると、ただいまーと言って靴を脱ぐ。

 おかえりと僕は答えてあげる。姉妹の代わりに、ままごとの相手をしてあげるのは一人っ子の親の務めだ。疲れたんだね。お疲れさま。抱きしめて、パパは君のことを本当に大切に思っているよと伝える。だって宝物だもの。娘は照れた顔をして、私は人間だからモノじゃないのよとつぶやく。人間の宝物なんだよと僕は教える。

 いつか自分がこの世から居なくなることを仮定して考えたことがある。思うことは娘のことばかりだった。自分の欲望に対して、人生に後悔や未練はない。ラガーマンのように大観衆の中でトライを決められたら恰好良いけれど、そんな大きな夢は持たなかったし、特別な人生ではない。でも、大切なものがある。

 伝えられるだけ、言葉で伝えておこう。どれだけ大切で、どれだけ幸せに感じているか。メリットやデメリットなんて、大した問題じゃない。誰かと比較する必要もない。難しく考えず、シンプルに生きよう。五家荘の樅木の吊り橋のように並んで寄り添って、それを丁寧に渡るように。

13.パセリ

 よく晴れた日に家の中でじっとしているなんて勿体ないと人間は考えるらしい。僕に言わせれば戯言だ。旅なんて頭の中でも出来る。陽気のあたる二階の出窓に寝転んで、じっと目をつぶる。今日はどこに行こうかしら。頭の中で、僕はどこにだって行くことができる。そうだな、海に行こう。きっととれたてピチピチの新鮮な鯵が水揚げされているはずだ。本当なら歩いて何日もかかる海にだって、僕ならあっというまに辿り着くことができる。僕らはとても自由な生き物だ。だから人間はとてもかわいそう。お金を使わなければ、暇だってそうそうつぶせない。だけど最もかわいそうな生き物は、この吸血鬼の伯爵だ。だって棺桶で眠る生き物なんて、僕が知っている限り死んでしまった人間か、この吸血鬼の伯爵だけだ。

 どうしてマリーはこんな男を好きになってしまったのだろう。はじめてこの男を見たとき、体の底から震えるほど怖かった。ほかの人たちに感じるような温かさというか血の気というか、生き物が生きているという気配や感触のようなものを、この男には感じることができなかったからだ。今でも、あのマリーが、この男にあれほどまでに惹かれてしまった理由が僕にはわからない。無理もない。僕は猫で、マリーは魔女で、伯爵は吸血鬼だ。そして今、僕は頭に角をつけた小さな坊やと、実際に、旅をしている。頭の中でならどうにでもなる旅だけれど、実際に歩いてみると大変だ。どうしてマリーは、僕に坊やのお供をさせたのだろう。

 僕らは今、中で眠っている伯爵と同じように無機質な鉄の棺桶の前で立ち尽くしている。

「ねぇ、パセリ。君は伯爵にあったことがあるんだろう」

「うん。もうずいぶんと昔だけれどね」

「伯爵はほとんど眠っているんだから、実際にはほとんどなにも変わっちゃいないさ。それで聞くんだけれど、この棺桶を開けたら実際、僕たちはどうなると思う?」

「どうなるって・・・・・・たとえば、僕たちの命のこと?」

「簡単に言えば、うん、そう僕たちの命のこと」

「そうだな、実際のところ、そればっかりはフタを開けてみなくちゃわからないよだって、それが実際の、旅ってやつだからね。頭の中でいくら考えたって意味ないさ」

「そうだね。ありがとう」

 巻き角の坊やは執事ペルシャバッコからもらった鍵を棺桶の小さな丸い穴に挿し込んだ。小さな金属どうしが擦れ合う音がしたから、棺桶の錠が確かに外れてしまったことがわかった。

「ねぇパセリ、もしかしたら短い付き合いだったかもしれないけれど、ありがとう」

「いいよわざわざお礼なんて、だって僕はマリーの命令に従っただけだからね」

「それであってもさ、君がいなけりゃ僕はここまで来ることができなかった。だから、ありがとう」

 ありがとうなんていわれたのはどれくらいぶりだろう。もしかしたら、生まれてはじめてかもしれない。気持ちの良い言葉だ。もしかしたら旅も、そんなに悪いものではないかもしれない。

「オキザリス、実際のところ君はずいぶんうまくやってる。頭の中で想像するよりずっとね。でもここからは僕の出番だ。だって、僕は伯爵のことをよく知っている。はじめてみた君の命の保証はないけれど、たぶん僕なら大丈夫だと思う。だって僕は、伯爵が愛した女の一番大切な飼い猫だからね。もし僕の命を奪ったら、きっとマリーは伯爵を許さない。だから僕にまかせて。昔の彼女だったとしても、きっと伯爵は今でもマリーを愛しているはずさ」

 オキザリスはためらいなく棺桶のフタを開けたから、僕は慌てて二人の間に飛んで入った。100年ぶりに見る伯爵の寝顔は真っ白で、やっぱり血の気がなかった。突然あたりがまっくらになった。

「窓の外を見てごらん、ほら、夜だ」

 オキザリスが叫んだ。さっきまでよく晴れていたのに、本当に夜になっていた。それに、激しい雨と、雷の鳴る音が聞こえている。首筋に冷たい鉄の感触を感じて、僕は振り向いた。暗闇に二つ、赤い光が浮かんでいた。目だ。そう思ったときには、僕はもう気絶していた。

「生きていながら、生きていない者の心がわかるか?」

 目覚めとともに、伯爵の声が聞こえた。きれいにまとめて後ろへ流された白髪、仕立ての良いチョークストライプのスーツ。二つボタンの上だけを止めている。ノッチド・スリムの襟は彼のシャープな印象に似合っている。おしろいを塗ったように白い顔に、赤い目が二つ浮かんでいる。伯爵は左手に持ったろうそくの灯りを僕に近づけて、もう一度、同じことを言った。

 生きていながら、生きていない者の心がわかるか?わかるわけがないだろう、だって僕は生きているんだものと心の中で答えたが、声にはならなかった。そうだ、オキザリス、坊やはどこに。僕の心を読むように、伯爵が言った。

「あの人間の子供なら、眠っている。少々血を頂いたんだ」

 伯爵は右手に持ったワイングラスを、僕の目の前にかざした。蝋の灯りだけでも、その飲み物の色が赤いことはわかった。

「まさか、オキザリスを」

 しぼりだすように、ようやくそれだけが言えた。伯爵は左手の灯りで、今度は棺桶の中を照らした。僕は慌てて棺桶の中に飛び乗って、やっぱりそこに眠っていたオキザリスに声をかけた。

「どうしちゃんたんだ、坊や、まだ眠るには早いだろう。だって君、まだ生まれていくらも経ってない子供じゃないか」

 叫びながら、坊やの体を揺らしたけれど、彼は何も答えなかった。代わりに伯爵がつぶやいた。

「心配しなくていい、眠っているだけだ。この子はマリーの使いだろう。良い目をしている。深く澄んだ泉のよう、それでいて、やわらかい木漏れ日のよう。まるで私が失った、命のぬくもりのような」

 伯爵はいとおしそうに、眠っているオキザリスの首筋に手をやった。

「伯爵、オキザリスを噛んじゃったの?」

 オキザリスの首筋に、赤い傷跡が二つ、数センチ離れて並んでいた。最も恐れていたことが起きた。この冒険は、最初から行うべきじゃなかったんだ。だって、わかりきったことじゃないか。100年の眠りから目覚めた伯爵が、いちばん好物の人間の生き血を前に我慢するわけがない。マリーがどう言ったって、止めるべきだった。

「心配しなくて良いと言っただろう。彼は眠っているだけなのだから。それより、最初の質問の答えだ。生きていながら、生きていないものの心がわかるか?」

 伯爵はおいしそうにワイングラスの中の赤い液体を飲み干した。

「答えは、NOだ」

 伯爵は満足したように微笑むと、皮靴の音を鳴らしながら部屋を出て行った。伯爵が置いて行った蝋の灯りの中で、オキザリスが眠っている。

「起きるんだ、坊や」

 僕は力の限りオキザリスの顔を踏んで、何度も叫んだ。起きるんだ坊や。だって君にはまだ使命があるんだろう。何度も何度も顔を餅のように踏んでいたら、ようやく坊やが目を覚ました。

「ありがとうパセリ。僕を助けてくれたんだね」

「いいやオキザリス、助けたかったんだけれど、恥ずかしい話、僕気絶しちゃったんだ。次に目を覚ましたときには、もう君は伯爵に噛まれたあとだった。本当にごめん」

「謝ることないよ、だって僕、死んでないじゃないか。こうやって君と話してる。だから助けてくれたことには違いないよ」

 オキザリスは起き上がって、僕を抱きしめた。吸血鬼に噛まれてしまったんだ。次期に、今度はオキザリスが吸血鬼になってしまう。つまり、生きていながら、生きていない存在に。そう思ったけれど、何も言えなかった。だってオキザリスの身体がまだあたたかくて、それに……

「大変だ、オキザリス、君の身体」

「僕の身体がどうしたの?」

「ごらんよ、ほら、羽が生えてる」

 間違いない。暗がりの中でもはっきりと分かった。坊やの背中に、左右に一つずつ大きな羽が生えていた。まるで、コウモリの羽がくっついちゃったみたいに。

14.5歳の誕生日

 生まれたとき、本当に嬉しかった。だから毎日、宝ものだよ。大事の娘。生まれてきてくれてありがとうね、と声をかけて育てた。愛されることを知っている人は、同じように人を愛することをできるんだということを、娘から学ぶ。ありがとうとごめんなさいが素直に言えるし、パパとママや、まわりの人をみんな大切にすることができる。パパとママの区別もしない。パパとママ、どっちもおんなじグラム好き。その言葉を、間違えたことはない。

 だからといって完璧に子育てができているわけではない。たぶん一人っ子ゆえに手をかけすぎているし、甘やかしすぎている。大事なところで怒っているつもりでも、そんなに怖がらない。どうせパパはあたしのこと大切なんでしょ、と見透かされていて、あまり効果がない。

 今日は雨の予報。雷注意報が出ていた。雷に打たれて亡くなるひとは、実はけっこういる。すごく低い確率だとしても、万が一もある。だから、わざわざ雨の日に、ましてや雷予報の出る日に、外で遊ばなくても良いと思っている。大切すぎて、心配しすぎているのかもしれないけれど、自分より大切に思う娘に何かあったら、後悔してもしきれない。

 今日は雨だから遊んだらダメ。

 そう言ったけれど、まったく効果はなく外に出てしまった。友達と遊ぶのが何より楽しいのだ。一人っ子だから特に、家で遊ぶよりは近所の子供と遊ぶことが楽しくて仕方ないらしい。調子に乗って、家の傘を全部持ち出したりするので、いけないことだと怒ったが効果はない。普段、聞き分けがない子供ではないのだけれど、まったくと言ってよいほど言うことを聞かない。

 帰ってきてから、めちゃくちゃ怒った。力ではパパに勝てないことを教えた。正しいやり方かはわからないけれど、ある意味では父親にしかできない。子供のころ、男の子だったこともあって母親は少しも怖くなかった。とにかく口うるさかったが、それだけだった。最終的には父親が出てきて、とんでもなく怒られた。それはめちゃくちゃ怖かった。正しいやり方かはわからないけれど、育てられたやり方は、身にしみついているらしい。もちろん暴力はふるわないけれど、怖い、ということを教えることは可能だ。絶対に勝てない、大きな力。

 それでも娘は離れずに、本当はパパ怒ってないんでしょうという態度だった。女の子は恐ろしい。この年でも、もうなんでも見透かしている。ただ、今までで一番くらい怒ったので、泣いて、ごめんなさいと言った。何で怒ったのかを説明して、まだ子供だから親の言うことを聞かないといけないことも教えた。怒っていることには理由があるのだというと、じゃあママがテレビ見たらダメっていうのは何でというので、もう朝からずっとテレビを見たでしょう。目も悪くなるし、テレビを見すぎるのも頭によくないからだよと答えた。わかったと娘は言った。大きくなって自分でお金を稼いで、自分で生きていけるようになったら言うことを聞かなくて良いけれど、それまではパパの言いつけはまもりなさいというと、分かったといって胸に抱き着いたまますーすーと寝息を立てた。怒られすぎて疲れて眠ったようだった。

 いつか大きくなって自分で仕事をするようになったら、怒られることもあるし、我慢しないといけないこともたくさんある。子供のころに甘やかしすぎるのは、やっぱりよくないだろう。怒られることにも慣れないといけないし、メンタルも強い子供でなければいけないし、ちゃんと我慢することや、間違ったら反省することも教えないといけない。最低限、親の務めだ。

 自分が完璧なわけでなもないのに、子供はちゃんと育てないといけない。だから逆に子供に学ぶことも多いし、しつけながら、親に感謝することも多い。

 一人娘。箱に入れて育ててるわけではない。むしろ、かなり逞しく育ててしまったと思う。車の中で、一人で眠ることもできる。普通、怖がるんではないかしら。魚の釣り方もしっているし、赤ん坊のころから転んでも泣かない。注射だって、最初のほんの数秒怖がるだけだ。気が強いから、自転車に乗ることにも恐怖心がなく、最初からいきなり乗ることができた。

 箱に入れて育ててるつもりはないが、本当に大切すぎて、お嫁に出せる気はまったくしない。寿命が150歳くらいまで伸びて、ずっと面倒を見て上げれたら良いのになぁとすら思う。でもそんな親の気持ちに反して、子供は大きくなる。5歳だからそう思うけれど、7歳になればもう一緒に遊んでくれないのかもしれない。パパより友達。もっと大きくなれば、魚釣りにも行ってくれないし、パパの洋服と一緒に洗濯するのは嫌がるのかも。

 でも、それでいい。大きな怪我をせず、大きな病気をせず、健康に大きくなってくれたら。大きくなって嫌われてもかまわない。そんな次元の愛情ではない。親ってたいしたもんだな、と自分で思う。

                怒られ疲れて胸の中で眠る娘の体温を感じながら。2020年5月

15.アンデスの乙女

 夢の中の出来事のように、僕は空を飛ぶことができた。小さな黒い猫を抱えて、僕は伯爵の館のいちばん高い屋根を目指した。とても大きかったものが、まるで手のひらにおさまったような気分だ。僕は屋根に腰をかけて、空を見上げた。おわることを忘れた雨が、冷たく身体を濡らす。ペルシャバッコヤナギの言う、月はあるんだろうか。あの雨の向こうに、今でもちゃんと。

 きっと僕は、もう鹿ではないんだろうね。

 つぶやいた僕の言葉に、黒猫が答える。君が誰かなんて、どうでもいいさ。たとえば歌を忘れたカナリアが、カナリアでなくなるわけではないだろ。いま分かっていることは、君は頭に巻き角をつけて、背中にはコウモリの羽をつけた人間の子供だってこと。君が鹿なのか人間なのかは、もう問題じゃない。いちばん心配なのは、君が吸血鬼になってしまったかもしれないということ。だって吸血鬼は血を吸うんだ。君だっておなかが空いたら、きっと僕の血を吸いたくなる。

 そんなわけないさ。だって君の血なんて僕、ちっとも欲しくないもの。今のところはね。でもそう言えば、なんだか何も食べたくない気がしてきた。ただ、少しだけ喉が渇いてる。

 ほらねと黒猫はいう。君が僕の血を吸ったら、今度は僕まで吸血鬼になってしまう。聞いたことがあるかい。魔女の飼い猫が、吸血鬼だったなんて。

 黒猫の言い方がおかしくて、僕はクスリと笑う。

 笑えるならきっと大丈夫さ。きっと最悪な気分のときは、ちっとも笑えないはずだから。

 そうだね。それで、これからどうしよう。

 簡単なことさ。雨を終わらせることが君のシメイ。そしておわらない雨の秘密はもう解けた。伯爵の悲しみを終わらせるんだ。ここにマリーを連れてくるんだよ。そのためにできることを考えてみよう。きっと何か糸口があるはずだ。ねぇ坊や、君、伯爵の夢のなかで何か見なかった?

 僕は目を閉じて、伯爵の夢の世界に戻った。伯爵とマリーが初めて会った、ダンスフロア。湖。そうだ。美しい花が咲いていた。黄色い花。その花を一輪、伯爵が摘んで、マリーに渡した。あのときのマリーの顔、とても幸せそうだった。花の名前は、たしかアンデスの乙女。

 僕は夢の話を黒猫に聞かせた。黒猫はすぐに同意して、すぐその花を摘みに行こうといった。森の外れにあるバジルの塔。降り続く雨の下で、あの花はまだ咲いているんだろうか。

16.初恋

 4歳のころ、娘がパパと結婚するんだと言ってくれたことをはっきりと覚えている。長島の海で、いつものように車中泊をした日の明け方、車の中で、パパと結婚するんだと娘が言った。エンジンを切った車の運転席で、パパに抱きつきながら。君が大人になるころ、パパはおじいちゃんになっているんだと教えたけれど、いやだパパと結婚すると。

 娘が生まれた次の日に、鹿児島から熊本に帰る車のなかで考えた。娘はいつか誰かと結婚するんだ。そう思ったら涙が出た。まだ生後1日なのに、娘が離れていく日のことを想像した。同時に思ったことがあって、でも必ず、誰かに渡さなければいけない。永遠に生きられない僕のかわりに、娘を守ってくれる誰かに。でも、それはきっと、まだずっと先のことだ。気づいたら熊本に着いていた。車の中でずっとそのことを考えていた。2時間かかる距離が、ほんの数分のことに感じられた。

 5歳になると、娘は恋をした。幼稚園の友達で、悔しいけれど良い男だった。同年代の子供に比べて、どこか大人びていて、とても優しい。もてるって、こういう男のことを言うんだろう。それから6歳になっても、寝ても覚めてもその子の話ばかり。

 パパと結婚するんじゃなかったの?

 するわけないじゃん。だってパパおじいちゃんになるんでしょう。そしたらあたしのこと守ってくれないじゃん。

 余計なことを教えてしまった。女の子は男が思うよりずっと冷静だ。物事を現実的に考えることができる。男のように夢物語は描かないけれど、ちゃんと恋をする。

 今何してるかな。これ持って行ってあげようよ。うめぼしが好きなんだ。今日、植木鉢をこっそり横にならべたんだよ。

 あきれるほど、彼の話ばかり。

 でも小学校が違うからね。きっとまた違うひとを好きになるかもよ。嫉妬心で、そんなことを言ったけれど、ならないと思うよと返された。だって、あんなひとほかにいないもの。

 生まれてからたったの6年。小さな体で、しっかり女子みたいになった。パパにとっては小さな恋人。そして、これは永遠の恋。でもそれは、とても短い恋。

 人は老化には逆らえない。誰だって年をとるし、いつか死ぬ。僕らは吸血鬼ではなく、人間だから。花の命と同じだ。美しく咲き、醜く枯れる。だから美しいのだという人もいる。だけど違う。美しい花を見て人は感嘆するけれど、枯れた花には見向きもしない。だからといって、ドライフラワーのほうが美しいのかというと、それも違う。花が咲くその一瞬の美しさには、枯れない花は叶わない。

 だから繋ぐんだろう。親が子供につなぐ。恋をして、その子がまた次につなぐ。でも一つ確かなことは、娘はいつまでも僕の宝物だ。たとえいつか娘がしわしわのお婆さんになって、そのときに僕が死んでいたとしても。きっと僕は空の上から、娘と、その夫と、ふたりの子供を静かに見守っている。

 そして彼を見て、そっとつぶやいている。

 でも彼女の初恋は、君じゃないんだよと。

17.バジル

 誰でも一度は夢見ることだろう。鳥のように羽が生えて、空を飛べると良いな。空を見上げながら、多くの旅人たちが歩き続けた。雲が浮かぶ空を見上げながら。でもこの世界は少し違っていて、空が晴れることはない。飽きることを忘れたようにずっと雨が降り続いている。もうひとつ決定的に違うことがある。僕は人間だけれど、頭には角があって、背中には羽が生えている。いいや、もう人間でもないのだ。僕は吸血鬼で、小さな黒猫と旅をしている。

 雨の中を飛び続けていた。歩くよりもずっと早く、そこに辿り着く。伯爵の夢に描かれたままの美しい湖から少し飛んだところに、その塔は立っていた。木のように枝分かれしながら、白くて細い筒の一つ一つが空を目指している。バジルの塔。夢の中の人々はそう呼んでいた。

 空の上なのに僕の手の中でまるで重力に押しつぶされるように深い眠りについている黒猫を抱えて、僕は静かに塔の足元に降りる。わずかな振動で黒猫が目を覚ます。

 またここに来るとは思わなかったよ。

 まるで眠っていたという事実を忘れたかのように、黒猫は話し始める。でもずいぶんと変わった。昔はもっとたくさん花が咲いていた。そこら中にね。でも見てごらん、今は、枯れた花ばかり。ずっと降り続く雨に、きっとやられてしまったんだろうね。

 アンデスの乙女だっけ?黄色い花。あの花もたくさん咲いていたね。

 黒猫の言う通り、夢の中で見た景色でも花がたくさん咲いていた。それこそ花でない植物を探すほうがずっと難しいくらいに。でも見渡す限り、ここには一輪の花すら咲いていない。

 どうしよう。

 つぶやいた僕に、黒猫がいう。塔に入ってみよう。この塔の持ち主なら、きっと何かわかるはずさ。

 干からびた魚の肌のような木のドアについた貝殻のようなすべすべの取っ手を引いて、僕らは塔の中に入った。ろうそくの灯りがひとつ揺れながら、あたりをしずかに照らしていた。

 ようこそおいでなすって。

 どこからか声が聞こえた。強くて張りのある声だ。ぼんやりと階段が見える。円を描くように回りながら、先が見えないくらいに天高く続いている。ずいぶんと高い塔でね。もう私は足が悪くて登れない。だからずっとここにいるんだよ。

 ようやく目が慣れてきて、僕らは声を主を見ることができた。ようこそバジルの塔へ。私はバシリコス男爵。男爵と呼ぶと聞えは良いがね、つまりはただの老人さ。壁に掛けられた絵の中の男が、疲れたような顔をして話していた。老人といえばまだ聞こえはよいがね、そう、私はただの絵だ。昔、魔女によって命を吹きこまれたが、おかげてつまらない毎日さ。こうやってお客人が来るのを、今か今かとずっと待ち続けていたんだよ。

 勝手にお邪魔してごめんなさい。でも僕ずっと前にここに来たことがあって、男爵に会うのも2回目なんだ。昔はもっとこう。

 黒猫は言葉を濁した。

 気にしなくていい。もっとずっと若かったと言いたいんだろう。私が絵だったころ、私はずっと若かった。正確には、若い男の絵だった。モデルの男はバシリコス男爵と呼ばれていた。優しい男だったらしい。もう死んだがね。ところで坊やたちはなぜここへ来たんだい。

 花を探しに来たんだ。

 僕は単刀直入に答えた。老人の話はながい。なぜって、長く生きているからね。語ることがたくさんあるんだろう。誰もが少しずつ年をとる。思い出が増えるかわりに、できることが少なくなる。だから思い出の話をする。昔を振り返って、若かりしころの良き時代の話をする。

 花か。

 絵の中の男はつぶやいた。花はもうない。昔はたくさん咲いていた。その扉の向こうにもね。誰かが来るたびに見える花が私は大好きでね。そう、中でも黄色い花がお気に入りだった。

 アンデスの乙女!

 僕と黒猫は同時に叫んだ。

 そう、その花だ。アンデスの乙女。とても美しい花で、恥じらうように夜にはまたつぼみにもどる。その花を探しにきたのかい。でも残念だがもうここには花は咲かない。なにせずっと雨ばかり。たまに旅人が雨宿りに扉をあけるが、もうずっと変わらない景色だ。

 じゃぁもうアンデスの乙女は咲かないの?

 いいや。ひとつだけ可能性がある。ここに来る途中に湖を見ただろう。あの湖の先にはウォーターホールと呼ばれる大きな穴が空いていて、水がそこに吸い込まれていくんだ。水と一緒に吸い込まれると、そこには町がある。地上とは違う世界だからね。そこには太陽が昇る。美しい空に、雲が浮かぶ。きっとそこになら咲いているかもしれない。でもその世界に行くには船が必要だ。真っ赤な船でね、ウォーターホールに吸い込まれても耐えきれる設計になっている。君たちお金はあるかい?

 いや、僕たちお金はないんだ。

 黒猫が言ったけれど、いいや、お金はあると僕は答えた。

 どうして、僕たち一文なしじゃないか。

 いいや、伯爵にもらったんだ。食事の対価だって、言ってた。

 そう言って僕は袋を取り出した。価値はわからないけれど、重くてざっくりとした金貨がたくさんつまっている。

 素晴らしいと、絵の中の男がつぶやいた。それだけあれば、あの赤い船が帰るだろう。塔をずっと上り続けてごらん。そこにモンベルショップがある。銭は急げ、間違えた。善は急げじゃ。今すぐ塔を上って、空を目指したまえ。

 ありがとうおじさん。そう言って僕らはこの長い階段を上り続けることになった。

 おじさんか、それも悪くないとつぶやく絵をはるか真下にのぞみながら。

 

 

 

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